<澁澤龍彦の手紙> 出口弘裕著

澁澤龍彦の実生活

澁澤龍彦の手紙> 出口弘裕著 朝日新聞社1997,6,1

 彼の実生活はどうだったのか誰しもが疑問に思い、ますますその神話は肥大化する。
僕自身20年前、いや25年ぐらい前の70年代後半かってないその該博な知識に驚嘆し呆然としていたころが思い出される。
もちろんご多分に漏れず、当時その影響を受た。
 その頃サドに関する彼の翻訳を読みふけり、そして彼の評論、伝記を読むとその行間に反逆やユートピアを熱ぽく語る澁澤がサドその者のようにダッブておもえた。
 が、その後、その語り口はトーンを落として、貝殻のように無機質的になって行くように思え、アクチャリテ、現実とのかかわりに物足りないように思えてきた。
 一方そうした中で澁澤ファミリーの中でも論理の展開や情念的なものへ志向する種村や出口の方により親近感を抱くようになっていった。
 
 本書は、出口よりに見れば親友澁澤をダシにした著者自身の自伝とも読める。
と同時に視点をずらして読めば、手紙という極めて私的なコミュニュケーションによって澁澤の実生活を点描したものでもある。
 後者は、ややもすれば、単に私生活の露出に陥りがちなものだが、そこは出口、敗戦濃いS20、7月に旧制浦和高校入学からS62,8,5の澁澤の死まで、彼への複雑な心境をも吐露しながら、まるでビルディンスロマンに仕立てていて、読む者をぐんぐん引っ張ってゆく。
 それを「友情」というのか、その関係が軸になりながら、読者には意外と思われる澁澤の経済合理的な発想や行動、そして、それに比し余りにも対照的な出口の作家志望の悶々たる思い・ルサンチマン(シオランにもつながる)や逡巡が重なり合い、綾なし異色の澁澤伝をもたらした。
 そして、最後の章にあるように澁澤へのレクエイムであると同時に、今は亡き著者の自らの遺書にもなってしまった。

 僕は澁澤から遠く離れている。一瞬すべてがゆるされ、なにでも奇想にもなりうると幻想しえるこの今、ここにいたとしたら、澁澤はまた出口は何を如何様に語るのか?