2001,1,15
本の泉社刊行

を読んでて興味深かったのはその構成主義的な舞台装置の一端が伺えた>
表現主義構成主義の影響が見られた↓メルツのあのシュヴィッタースとの対比・類似http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/d_jbrand/dada_top.html
「日本におけるダダ展」〜マヴォMAVO/メルツMERZ/村山知義/クルト・シュヴィッタース

会期:2005年6月1日〜18日 10:00-17:00(16:30まで入場)
会場:東京芸術大学 陳列館2階

  "マヴォ展"カタログ表紙 村山知義(東京 1923年)

そんなことよりも、実は何よりも感心したのは、彼が子供雑誌に童画をずっと描いていたことだ(治安維持法で検挙拘留されている期間を除く)。
 以前その主義主張が目まぐるしく変わるので彼を揶揄したが、イントロで永井潔が村山自身の言葉を引き<ゴチャマゼ芸術家>と云う言葉を好意的に解釈し使っていたが、年表を見ていると一貫したものがあった。
 それが童画だったのだ。>残念ながら本書にはあまり載っていない→大阪国際児童文学館に彼が作ったキャラがある
http://museum.iiclo.or.jp/ref_menu.php


 また第一書房の<近代劇全集>の挿絵・カットなんかすごいなと思うし、27年以降左傾したにもかかわらずモダニストの<東京交響曲>(片岡鉄兵、浅原六朗、岡田三郎)のモダンなイラストも手がけている。
さらに以下の年表で

1901M34東京生まれ
1921T10東大文学部哲学科入学(12月退学)〜1977死去
1922
     ベルリン遊学
     ベルリンの画廊で大未来派展に出品
1923 
     帰国
     自宅等で意識的構成主義的展覧会を開催
     7月門脇晋郎、柳瀬正夢尾形亀之助、大浦周蔵らと<マヴォ>結成
1924
     6月<子供之友>編集
     12月 築地小劇場<朝から夜まで>(ゲオルク・カイゼル作)の舞台装置・衣装担当
     マヴォ
1925
     4月<燕の書>(エルンスト・トラー作)翻訳発刊(長隆舎書店)

     6月<カンディンスキー>(アルス刊)
     10月萩原恭次郎<死刑宣告>(長隆舎書店刊)に作品写真一点掲載
     11月<三科><マヴォ>脱退
     12月プロレタリア文芸連盟創立大会参加
     

     
1925
     赤坂にあった映画館葵館の会館のために内装設計をし、その後プログラムを3年間毎週書いた
1926 
     2月共同印刷争議支援の劇場に公演出演
     <文芸市場>2月号表紙デザイン
     <カサノヴァ情史>(小牧近江訳 国際文献刊行会)装丁
     7月柳瀬正夢らと日本漫画連盟結成
1927 
以後左傾していくようだ
     第一書房の<近代劇全集>の挿絵・カット

1928<国民新聞><本年を文壇人は斯く踊った>で写真と漫画のコラージュで痛烈に風刺 葉山嘉樹、片山鉄兵、菊池寛横光利一等がやり玉に挙がっている。

1929<東京交響曲>(片岡鉄兵、浅原六朗、岡田三郎)の挿絵・カット<文学時代>6月号

(同書による、以下写真も)
 1926年を見ると<虚無思想>の表紙も何点か手がけているほか、同書には記載がないが、世界奇書異聞類聚の第11巻として <女天下>(フックス、キンド共著)を訳している。これも国際文献刊行会であり、あの梅原北明等とも交流があったことを意味する!
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そんなわけで昭和初期の<前衛>(アヴァンガルド)→左傾という一つのパターンといっても、モダニズムの都会の香りもあり、しかも、その芯には童画に向かう面もあり、多面的な、まさに<ゴチャマゼ芸術家>だったのだろう。>これも昭和初期のモダニズムの<ゴチャマゼ>なところから来ているのだろう。そう考えて行くと、ある意味では村山知義て実直な人だったのかと思い直した次第である。