高橋お伝神話

 仮名垣魯文
書名   :明治文学全集 2
出版者  :筑摩書房
出版年  :1977
<毒婦>高橋お伝の物語、潤色はあるもののルポルタージュ風の当時の小新聞
連載もの。
男をたぶらかす奸佞毒婦のイメージがあったが、ある種奔放だが、善であれ悪であれ、なんか一生懸命に生きていた女の姿に共感してしまった。(これは、ボクが名著邦枝完二<お伝地獄>を先に読んで相当印象づけられたと云うだけではない様に思える)
 別報で花田清輝が西部劇の女主人公になぞらえ賞賛していたが>よく分からないが、勧善懲悪の戯作風のスタイルにもかかわらず、時代を辛らつに批判する魯文の精神はお伝のどうしようもない生き方、まるで、浮き草・デラシネのような、女故の弱さと、その反対のエロスを武器に明治初期の混乱した時代を精一杯生きていたのではないのか?共感していたのではないのかな、そんな気がした。
同著より斬首の刑
 金がないから論外だが(泣き)、オレもそんな艶女にだまされたい!カミソリの刃を向けてくれさえしなければね・・・。
 しかし、後年、彼女の女性器を後生大事に保管した国家てのも、男の単純な性妄想再生産のキッチュな神話でなくしてなんであろうか?
 夜叉(やしゃ)でなく夜刃(でやしゃのルビ)
 
 夫道之助が当時不治の病、天刑病といわれた癩・ハンセン病におかされていたというのも、この物語でお伝の愛憎に残酷なほどの振幅性を与えている。特に江戸時代の子供をたぶらかしその腹を切り裂き、生き肝を摘出する癩病がらみの残酷なエピソードがやたらと生々しくて強烈。

 明治政府が施策した富国強兵、文明開化といっても所詮資本主義の貫徹する男の新世界、そこで女一匹で何ができるのか(どうして生活できるのか?)、妾、地獄(売笑婦)、騙し、金目のある男を渡り歩いて、どこが悪いのか、居直りといえば言え、男と立ち向かうにはそれくらいのしたたかさを持ち合わせていなければならない。こうして、敢然男に刃向かったからこそ、男(金、権力)からの嫉妬と性的ファンタジーの入り交じった<毒婦>という神話が生まれたのだろう。

femme fatal(ファム・ファタール)とも少し違う様