<俗悪の思想>石子順造著1971,12,10初版

utu2004-02-12

サブタイトル 日本的庶民の美意識
以前手にいれたので、ぱらぱら読んでいて今の現状についても正鵠を射ているのではないだろうかとその見識の高さに感動した。
石子は、美術、芸術のメタ志向を述べたあと、キッチュに関心を寄せてきた理由を次のように書く。

 ここでぼくは、視覚の習い、という問いに当面する。ぼくらの視覚はどのような習いの構造を持っていたのか?
 そしてその生理的自然のままではありえない構造は、想像力・概念をも制約して歴史の力学に他ならず、そうした歴史のわれわれの身体における総体の全的な開放の体験として、世界・存在が一瞬ありありとその具体性をあらわすのではないだろか、と。
 もしそうだとすれば、われわれはそうした開放の体験から深く遠ざけられているはばとあつみみにおいて歴史を背負っているともいえ、表現における「近代の超克」は、開放にこそ向けられなければならない。
 そのためには、なによりまず、われわれの知覚、したがって想像力・概念が、どのような習いの構造をもって近代と呼ぶ史的体験を身体化してきたかを、自己が属する生活のなかに発見し、自覚しなければならない。

 なんとも、読解しにくいスタイルではあるが、2,3度となく読んでいると言わんとしていることが幾分か分かってくる。>この独特な、難解なスタイルによって石子は損をしているが(元東大の先生は稿料稼ぎかよ!、ちなみに石子も東大(院)出ではあるが在野であった)、それはおいておき、ポストモダンであれ様々な意匠のもとに主体が等閑視した具体的な生活圏において芸術でない、いかもの、<キッチュ>についてベンヤミンアウラ論なども引き合いに出しながら論じてゆく。が、論旨は必ずしも、明解でなく十分説得力があるとはとはいえない(当時最高の記号論のひとつだったと読める、ただ今ならデペイズマンやパロディへ傾斜するのではないだろうか?)。
 というものの、30年以上前の古さをみせず、個別に論じた<科ありて咲くー花のキッチュ>の桜論、昭和初期<少年倶楽部>等で活躍した挿絵画家伊藤彦造、そして現代の赤瀬川原平(60から70年)についてオマージュをささげキッチュ論を展開しているのは読んでいて今なお楽しいし、示唆に富む。
その他、伊藤晴雨、三島の盾の会、つげ義春等を論じている。
なにより銭湯の壁面にペンキで描かれた山紫水明画論は秀抜!
復刊の価値あるよな>出版社いきてますか?>太平出版(アナーキズムライヒの本を当時出していたマイナーな、面白いとこだった

寝たの3時だよ!