ゆきゆきて神軍>憂国の士だぁー

どうでもええことすいません(m--m)
憂国の士といえば、やっぱこの人奥崎謙三ですね。論理も明快すぎる。
直接行動あるのみ。右翼にも警察にも、国家にもたじろがない。天皇の戦犯責任、旧日本軍の責任追及ひと筋のようです。

http://www.eurus.dti.ne.jp/~rikky/singun/kanren.htm←ファンサイト

ゆきゆきて神軍(ビデオ)
監督・撮影: 原一男 1987/カラー/16ミリ/122分

 いわずと知れた奥崎健三(ママ)の代表作。大きめのレンタルビデオ店にはある。>ぼくの近くにもあったよ
 あらすじは−主人公の奥崎謙三はバッテリー商を営んでいるが、一人で「神軍平等兵」を名乗り、かつて手製のゴムパチンコを天皇に向けて発射し、戦後初めて天皇の戦争責任を行動で告発したことがあった。奥崎は大戦中、独立工兵隊36連隊の一兵士として極限状態のニューギニアでかろうじて生き残った者の一人である。そして彼は一人で過激に「戦争責任」を叫んでいた。監督であり自ら撮影者でもある原は、この奇妙にも見える男の日常から責任追及の恐るべき孤高の行動までを追い続ける。その中で終戦後23日目に起った隊長による部下射殺事件や人肉嗜食の事実を明るみに出す一方で、奥崎自身のキャラクターを接写していく。そして彼の言動と行動は、撮影されていることを意識し始めることで徐々に激しさと狂気を増し、奥崎の仕掛けはカメラの後ろに立つ原自身にも迫ってくる。撮られることによって演じること、そして奥崎自身が現実を演出することで、虚実も曖昧なまま暴走し、ついには奥崎は確信犯として殺人未遂を犯すという事件だけが後に残るのである。−というもの。

ゆきゆきて神軍>は映画で昔見たが、その衝撃力(しばらく映画という記号を観るのがあほらしくなったほど)はつまるところ、奥崎のキャラに負うところ大だが、それだけではない。被写体(ヒーロー)奥崎の現実(行動)と映画(ドキュメンタリー)との関係。被写体(パフォーマー)と撮影者と見る者(観客)との関係についていろいろとを考えさせてくれた。

 そのスリリングさと熱気。唖然とするハプニングの連続。挙句の果てがヒーローが事件を起こす場面を撮ってしまう。
現実(事実)とフィクションとの境界をつけられない。いわば、観ているぼくたちに向かってスクリーンから通常の記号ではなく、奥崎というのっぴきならない事態が飛び出してくるからタマラナイ。その生々しさ。それは本当に殴っているのか?だがヒーロはフィルムの教唆(自分なりの意味付け)があったからか、現実に元上官の息子に暴行したのでは?奥崎の観念は多分正しいのだろうが、手段が問題なのか?自分の考えを実行する。どこが悪い。右翼をも恐れさせる奥崎の論理と行動。しかし単純な二元論(善悪)という点では日本の戦前の天皇制が生んだ観念論の双生児では?うーん、しかし年老いたお母さんはどんな気持ちかな?様々なことを考させられた*1
そして9,11のテロ事件、ぼくたちは現実を直接知らない。新聞、ニュースというメディアからの伝聞・記号の集まりを現実と擬制しているだけなのか?
見えているものって何なの?



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ヤマザキ天皇を撃て!・皇居パチンコ事件陳述書・(書籍)>昔、店頭で見たことある
新泉社
   奥崎謙三の本、第一の書。1969年の新年参賀の雑踏で、天皇にパチンコ玉を発射した元陸軍上等兵の行為の背景には、天皇の名によって、ニューギニアの密林と湿地に屍を晒した多くの無名兵士たちの慟哭がこめられていた。
(新泉社新書案内より)
宇宙人の聖書(書籍)>昔高校か大学の時、これも見たけど、ちょっとアブナクテ買わなかった
新泉社
 奥崎謙三の本、第二の書。平等・一体・分相応に生きられる絶対的世界を求めて。
1956年  不動産業者を傷害致死罪で懲役10年。
1966年  大阪刑務所を満期出所。
1969年1月2日  新年皇居参賀で「ヤマザキ天皇を撃て」とパチンコ玉を撃つ。
1976年  天皇ポルノ写真事件。
1980年 参院選全国区に出馬
1983年12月15日 衆議院兵庫一区から立候補中、大竹市で旧軍隊時代の上官の長男に発砲。
1983年12月17日 殺人未遂容疑で、神戸市で逮捕
1987年12月17日 殺人未遂で懲役12年の判決
1998年8月20日  府中刑務所出所

*1:今、再度見れば、最後まで笑い転げているかもしれない