<衛生展覧会の欲望> 田中聡

いや、1年以上ほったらかしの本、読もうとすることもあったが、いつの間にか忘れがちになり・・・もう少しで処分しそうだった)汗

既出

Ⅲ人体模型の祝祭空間
が圧巻(引用、写真同書より)

衛生啓蒙は<真実>を暴いてみせる

●展覧会を通して見物人が見る視線について明治の近代受容に伴う変貌

 江戸時代の漢方が展開させた大宇宙に対応させる小宇宙としての身体(内臓五臓六腑)という観念論に対し明治期啓蒙思潮が身体を分析的に器官・機能に見て行く。
すなわち、身体は様々な機能を持った器官の集合であり、疾患とは局部の故障である
これは近代西洋の機械的世界観を前提にしたもの。
細菌、病原菌についても同様標本や図解で病気の「正体」を見せることで、感染症の原因となる病原体を対応させ、この機械的世界観を見る者に学ばせた。

衛生知識の普及にとって不可欠な大前提を、衛生展覧会の陳列品は、眼に訴えて、眼差しの作法として身につけさせることができた

●大正期以降の展覧会での眼差しの変容

 美人の人形の半割れの裾から覗く梅毒で爛れた陰部に注ぐ視線は、啓蒙的科学的、医学的な了解と同時にこうした人形に象徴される者達を娼婦として差別することで、見物者自らが病原菌に犯されていないことを内心喜び、安堵し、日常の生活圏にいることを確認する面がある。>見世物の畸形についても

 さらに、この<病める人形>を見た視線(自意識)を安定化させるために、疫病神としそれを焼くなり、流すなりして供犠を要求するのではないのかと論を進めている。>首肯するかどうかはともかく、この辺は著者の大変ユニークな論点。

 一方見ることの飽くなき好奇心に満ちた視線は性的なものと混じり合い、珍奇な、畸なものへとエスカレートして行く。

 そして少し時代が下って昭和に入ると風俗としても当時のエログロナンセンスに見られるように<変態*1><猟奇>が<尖端的>モードとすらなる。

 この辺については田中は、相馬二郎の<変態風俗資料>(S10)に付きながら、また当時の流行だった<医学趣味>や<体内巡り>等の挿話を交えながら、こう論断する。

好奇心が視線を支配している時には、その眼は出歯亀の眼。変態研究は世界を見世物へと変化させる。

そして

コレクションされた変態的なものたちを並べて視線にさらすことで、眼は正常ー異常の座標軸を学ぶことになるのだ

 確かにそうであろうが、彼等はコレクターの常として、病膏肓に入るというか、目的と手段の逆転、フェティシュ現象を起こしていないだろうか。<畸>を<畸>として楽しむ。そして次第に座標軸がブレだし、アナーキーになり、ついには正負が逆転する。そうした一時期の祝祭が梅原北明等の活動だったのではないだろうか。>これボクの思いこみ。

*1:性的な意味より範囲が広い