高橋お伝神話2

<大江戸死体考>
人斬り朝右衛門の時代

大江戸死体考―人斬り浅右衛門の時代 (平凡社新書 (016))

大江戸死体考―人斬り浅右衛門の時代 (平凡社新書 (016))

 サブタイトル通り朝右衛門、だけでなく江戸時代の死体を巡る様々なエピソードを豊富な資料を引き、時代の影を丁寧に浮き彫りにしてくれた快作。

 将軍家の刀剣類の試し斬り・御様御用(おためしごよう)召された初代山田貞武から8代吉豊でM3年の通達で刑死者の試し斬り、人胆の採取の禁止令でこれらができなくなり、東京府囚獄掛斬役すなわち首切り役人になる。
 その後、この8代目の弟が吉亮(よしふさ)(1854〜1911)
雲井龍雄、島田一郎等の首を切り、M12市ヶ谷の監獄で高橋おでんを切った後、M13制定刑法(M15.1.1施行)で死刑が絞首刑に変わり、事実上の最後の朝右衛門となった。
 その山田家に迫る著者の筆は細やかで、しかも資料から実態を浮き上がらせる手つきはなにやらミステリー風で鮮やか。

 御様御用は腰物奉行、配下の腰物方、牢屋見回り役の町与力衆、徒目付衆等の下で死体で刀の切れ味、具合を確認する厳粛な行事でもあった。
 
 江戸初期には武家の練達と道具の品質検査のためた大名達自ら処刑や試し斬りをしていたが、次第に血なまぐさいことを忌み嫌い、その専門家が出てきた。
それが山田朝右衛門一族。

 血のない太平な江戸時代ともう一方で血を求める刀。
将軍家に仕える聖なる身分と死体で刀の切れ味を吟味する血に塗られた汚穢の身でありながら、いやそうであるからこそ、死者を手厚く葬り菩提を立て、隠居後は俳句を嗜んでいたようだ。>著者の関心もその辺から来たようだ

 浪人の身で朝右衛門は何故経済的に裕福だったか?>たぶんこれが山場だろうが
その訳は、第4章の肝取る話で判明するが、処刑した死体の肝臓や脳味噌、その他の器官を薬にして販売していたとういキモイ内容。

人体の一部を病人の薬として使う民間信仰(迷信)
天保10(1839)甲州の村で10才の少年が妖しげな医者にそそのかされ他の少年達によって肝を取られ殺害された事件
生肝信仰江戸ならいざ知らず、開明したはずの明治初期頃でさえ斬罪や晒し首になった死体から頭蓋骨や、陰茎を盗んでそれを薬にして販売されていたようだ、それだけにナマギモ信仰は根強かったと言うこと。

 ますます仮名垣魯文がすごく見えてきた、これらをふまえてコラージュしていたのだね
(参照http://d.hatena.ne.jp/utu/20060727/p2