アフガン・フリーク イントロダクション

アフガン・フリーク(アフガン奇行)
 
  イントロ

 旅が始まったのは新生を告げる早春だった。いや旅というよりも一種の逃避行に近いものだった。しかし何からの逃避か?自分自信から?日本にこのまま燻っていても腐るばかりだ。自分の環境をかえなければ窒息しそうだった。瀕死寸前の身には清澄な空気が必要だった。腐乱した体が、精神が、たとえ、一陣の風にさらされミイラのごとく粉微塵になろうとも、新しい風に身をさらすほかあるまい。新しく生まれ変わること。そうすれば内部で何かが壊れ、また何か他のものが欠落を補うだろう。地下の暗部から来るべき樹々や花々が根付き、地上に芽を吹くように、旅は人に死と再生を強いる。一度見なれ親しんだしがらみを抛擲し、未知の状況に身を置けば、異国のものや人を通して鏡のごとく自らの孤島の姿をくっきりと映し出すだろう。

 最初ネパールの山中奥深くトレッキングをした。Pと言う田舎町からアンナプルナやダウラギリの高嶺を目のあたりにしながら、チベッド系の村落を訪れた。当然のことながら彼等はそうやすやすとはよそものを受け入れなかった。できたことといえば、ドーム上の白い建物パゴダの中から朗々と鳴り渡る読経を唱える声を聞くぐらいだった。臙脂色の法衣をまとった僧侶達が粛々と儀式を執り行い、稚児達がそれにあわせて法螺貝や木魚とも分からない打楽器を耳を聾するばかりに吹き、打ち、そして鳴らした。
 ネパールを去ったのちも、その残響は残った。神々しくも魔的な、人を寄せつけないヒマラヤ山脈の山気やラマ寺院の残り香が、カトマンズーでハシュシュをやった時の刺激臭と混じりあった。
 トッレキングは登山や山歩きの趣味のない、経験もない者にはきつすぎた。そのため体重は一挙に五キロも減った。尻の肉が削げ落ちたため、スプリングも何もない固い木製ベッドに寝ると、骨が擦れて痛い程だった。そんな体験は初めてだった。仲間も寝苦しそうに、尻が痛いとこぼしていた。当然ながら体力は落ちた。10時間以上寝ても寝足りず、疲れがとれず、いつまでも背中や腰の当たりに溜まっているようだった。むしろ、眠れば眠る程反対に疲れた。そして疲労感をいやすようにマリファナやハシュシュをやった。初めてだったが、まるで薬のようだった。
 日本人のTとの出会いは、こうしたハッパの使用に何かを変化させた。
 丸い縁が黒い眼鏡をかけた学生はインドから流れてきた。その体躯はインド人やネパール人のようにガリガリに痩せていたが、肌は日焼けせず白かった。
 銀光を放つ星々が今にも落ちてきそうな程に大きく見える、雲ひとつない澄んだ夜空が見渡せた。痩身の彼と一緒にLSDをやった。真夜中というのにどこからか牛が一頭忽然と現れた。それこそ魔法のように。そこで驚いた二人はその出現を強引にLSD体験に引き入れ考えた。ヒンズー教で神聖とされる牛までもが俺達を褒めたたえに来たのだと。お伽話しのような世界の中を空が幽かに群青色に明け染めるまで至福感に浸りながら外を彷徨った。
 それ以後、マリファナやハシュシュをハッパと呼んでいたのだが、ハッパやLSDにのめり込んでいった。効き目が薄らぐとまた取った。何もかも忘れてハッパをやった。そうするとすべてがどうでも良いように思えてきて、帰国日は日一日と延びてしまった。はた目には俺達はドラッグの虜になったように見えていたかも知れない。そんな幸福ではあるがまた懶惰な日々だった。

 とうとうネパールを去る日が来た。ビザの有効期限をとうに過ぎていたので、出国手続きの官吏に金を握らせて、なんとかして出国し、ここバンコックにたどり着けた。



 安宿をさがしている時に偶然であった貧弱な身なりの日本人の後についていった。
 その部屋は中国人街の一角の旅社(宿)だった。上の階にはいかがわしい中国女が所在な気に屯しており、淫縻な嬌声が寝静まる頃まで聞こえていた。
 男の白いTシャツの右肩の破れから白い肌が覗く。肩までかかった長い髪はつやがなく、先が痛み、ちじれている。その顔は目の焦点が定まらない。彼に案内され部屋の中に入るまでは単なるヒッピー崩れのバカボンドぐらいに思っていたのだが、視野をその背後にまわすと、無造作にテーブルの上に置かれたハシュシュの拳大の固まりが目に飛び込んできた。途端にプッシャー売人だと気づくと、少し緊張した。糞そっくりの黄褐色のハシュシュをふるまわれ、それを吸いながら彼の話を聞いていた。
 昼間は外国人旅行者が集まるMホテルに出入りし、ハシュシュを売り捌いていた。そうはいってもインドやネパールで売るのと違い大変状況はヤバイ。吸うのも同様厳しい。ここで吸うには相当覚悟がいる。とりわけ女とハッパを楽しむのは避けろ。娼婦や宿のオヤジは信用できない。やつらは警察にタレ込むことだってするからだ。それでもやりたいのなら、バンコックを離れチェンマイの様な田舎へ行ってすればよい。
 こんなアドバイスをしてくれた売人はバンコックに長く居着いているようで、タイ語をこなし、一般の旅行者が泊まりそうな宿は慎重に避け、中国人が泊まりそうな宿を見つけ、紛れ込んで暮らしていた。それだけにその話はもともらしかった。
 バガボンの溜まり場や安宿は警察が目を光らせて、不意にドラッグの手入れをする。
 もしハッパを所持しているならば、サツの手入れに備えて、共同便所の壁の剥がれた隙間に隠しておくのが一番安全だ。絶対自分の部屋や所持品の中に証拠となるようなものを置いておかないことだ。運悪く、ポリに見つかればクソ蒸し暑いバンコックの豚箱で文字通りトン死だ。
 「おい、そうビビることもないぜ。もし、十分な金さえあれば、警察も裁判所も心配しなくていい。ここバンコックではすべて金次第。権力も女もドラッグも銃も金で手に入る。逆にいえば、たとえドラッグでムショに入っても、数十万円の金があれば、釈放される。賄賂がものを言うのがこのバンコックなのさ。」
そう言うと何本目かのハシュシュにライターで火をつけ、効き目を確かめるようにじっとしていた。
 虚ろな眼差しを向けながら今の自分が抱えている問題についても話してくれた。先ほどの話を裏付けるように、彼の友達のフランス人がドラッグ所持の容疑で逮捕され、今公判中だが、釈放と引き換えに賄賂を官憲から要求された。もちろん金は俺達同様なかったため、トンだ目にあっている。この先どうなるか分からない。心配なので公判があるといつもその裁判を傍聴しにゆくそうだ。
 しかし、話とは裏腹に、この状況の悪さを知りながら、なおかつ、俺達は、ハシュシュを大胆にも吸っていたのだ。しかもぐんと効くアフガン産ハシュシュだった。なんてこった。効き目がぐんぐん上がってくるに連れ警察に対する不安は消え、リラックスしていた。
 体全体でアフガンハシュシュの効果を味わっていた。ネパールのハッパもいいが、アフガンの方は、それ以上に凄かった。カトマンズーで出会った日本人が言っていたようにコロンビア産と並んでアフガンのハッパの質は世界のトップレベルのようだ。アルコールに酔ったように体がクラクラして立っていられないほどだ。
 少量のネパール産のハシュシュを持っているのを知って、 
 「欧州に向かうならパッパは絶対持っていっていくな。何もそんな危険を冒すまでもなく、アムステルダムスウェーデンで容易にハシュシュを手に入れることができるんだから。そんなバカげた危険は冒して何になる、分かったか」そう諭すように言った。
 その顔を見つめていると、斜視で、あらぬ方向を向いた両の目が熱気を帯び、輝いていた。
 以前ヨーロッパのどこかでハッパを売り捌いていて捕まった過去のことを思いだしているのか。それとも、その両目はハッパでぶっ飛んでしまったためなのか。ハッパ等をやっている間は瞳孔が拡大するようだから、何かの拍子でイカれてしまったのだろうか。欧州とアジアを行き交い、放浪する、ドラッグを携えたバカボン。一見彼の軌跡は自由自在のようだが、日本には二度と戻って来られまい。なぜなら彼に待ち受けているのは警察なのだから。
 更に話を聞いているうちに驚いたのは、彼が八年ぐらい前にヒッピーが全盛だった時代のカトマンズーの残り香を後生大事に取って残していたことだ。両手で広げて見せてくれたのは七十年代初期の頃と思われるサイケデリックな色彩と、タッチでできたハシュシュフェステバル開催のためのPRポスターだった。誇らしげに、見せびらかすようにポスターを上下左右に振りながら今と違って、俗化される前のネパールがどんなに素晴らしかったか、ピントのずれた視線をこちらに向け話を続けた。その表情には遠い想い出を懐かしむところがあった。ネパールでは今でも半ば公然とハッパを吸えるが、その頃は世界各国から追放された、いや自ら進んでドロップアウトしてきたヒッピーがネパールやインドまで来て、よりつどい、和やかにハシュシュフェステバルなるものを繰広げていたのだ。なんてことだ!
ハッシュ!ハッシュ!
 だが、彼の話の内容が昔日の面影を美化、理想化すればするほど、それとは反対に、彼の現在の境遇が悲惨に見えてきた。その傷んだ毛の一本一本にヒッピー時代の終焉が、情け容赦ない時間の流れが痛々しく印されていた。またいつかバンコックで売人に出会えば、その長い髪も白髪混じりになっていることだろう。
 捩れた髪の毛が風に絡まり、世界中へ流れてゆく。だが、結局、その白髪は祖国には辿着けないだろう。風のそよとも吹かぬバンコックの中天を売人の髪の毛は滑走して大きく飛翔できるか?それは一瞬地上を離れたかに見えたが、窓に赤錆た鉄格子をはめたこの安宿にまたもや落ちてくるだろう。女郎屋同然のむさくるしい部屋に長い髪は渦巻いても外には一本も出られまい。この先、どこかで痛んだ毛を拾ったならば、バンコックから風に乗って抜け出てきた売人の分身だと思い込もう。アフガニスタンでなら出会えるか長髪よ?そしてそれはこれからの旅の道標になるだろうか?アフガンハシュシュよ。
 翌日、彼の宿の下一階が大衆食堂になっていたので簡単な朝食を済ませると出ていった。外はひどく眩しかった。
起きるが早いか、アフガンハシュシュをやって、ブッ飛んでいたからかもしれない。
 日本製の旧式の車がクラクションを鳴らしながら走り、中国人やタイ人が作る雑踏の中でバックパックを背おい、安値のLホテルを探しに出た。
 ハシュシュを吸った甲斐あって、肩の荷の重さも、太陽の熱気も、不快な湿気もほとんど気にならなかった。足は面白いほどどんどん進んだ。視界は普段よりも数倍も鮮やかになり、常では見過ごすような瑣末なものの輪郭もはっきりと視野に刻まれていった。しかし、意識の或る部分は人や機械や車の音の洪水に呑み込まれて、朦朧としていた。物理的な時間はアフガンハシュシュによって乱されて、独自の内的な時間が不意に浮上してきた。まるで腕時計の針は止まったようだった。
 どれほど時間が経ったのだろうか、バンコック駅の広場につっ立ている自分に気がついた。
 駅の横手はよどんだ暗緑色の河が流れ、その橋上には粗末な屋台やら椅子やら茣蓙が雑然と並び、その上には極彩色の熱帯植物、マンゴ、バナナ、見ず知らずの亜熱帯性の果物、薫製の川魚、得体の知れない動物の贓物、油菓子が買い手を待ち受けていた。それらの交じり合った生臭い匂いと駅から吐き出される群衆の人いきれや体臭、脂汗が鼻先を刺激した。
 バンコックの光景は虚脱状態に近い頭に、本や雑誌で薄ぼんやりと組み立てられた、日本の敗戦直後の混乱期のイメージをダブらせた。まがい物の時計や安物ライターを売るテキ屋、コーラ屋、饅頭屋、漢方薬の店、中国語の大衆紙売り、中華料理屋、葬儀屋、質屋、トルコ風呂等こうした店が大声をあげる人声、車やバイクの騒音を吐き散らし、雑然とし、猥雑な街を形作っていた。光り溢れる圧倒されそうな人込みの中を縫って進んだ。

 駅近くの目指すLホテルにどうにか辿着いた。どうにかと言うのは、途中、宿を意味する「旅社」を目印に歩いていて、間抜けなことに、ふらふら入った銀行か郵便局の建物を宿屋と間違えてしまった。そうとも知らず中に入り係の者に部屋が空いているのか、料金はと質問し、周りの者の冷笑をかってしまった。歩き回って汗だくになっていた。その上、冷汗が体中から噴きでた。このハプニングもハッパのなせる悪戯か。

 二週間、宿近くの中華街の場末をうろついた。外を目的もなく歩いているとそれとおぼしき女が寄ってきた。女の匂いとドリアンの腐った様な匂いが俺の体を刺激した。
甘く、妖しい流れに沿って、鈍色の痩せた魚のようにフラフラ泳いだ。娼婦と快楽を共にしている時も、なぜか焦燥感に似たものを感じた。ふと見上げると天井に吊り下がった旧式の大きな扇風機がパタパタとはためき、一層気分が悪くなりそうな、悪い、湿った熱風を肌に送る。濁った空気が意識を朦朧とさせる。クソだめだ。こんな腐った場所にぐずぐずしていられない。これじゃ日本と同じだ。このままバンコックに長居していると、梅毒のスピロヘーター以上の、目に見えない悪菌に犯されそうだ。
ハッシュ!ハッシュ!
 とにかくここバンコックを離れることだ。空気の乾いたところがいい。

 バンコックからモスクワ経由でパリに飛ぼうとしていた。出発前に大陸周遊券のユウレルパスを旅行代理店で購入しておいたから、その後欧州なら列車でほとんどどこへでも行ける。最初に足を着けるのはフランスだ。と言っても何か目的があるわけではない。目的?必要なのか?自分にとって旅とは、絶えざる現在形であり、普段の日常性とは別の何かを垣間見せるようなものであればいい。足取りは蹌踉としており、直線でなく、紆余曲折のランダムな軌跡を残すだろう。眩暈を呼び起こすような旅であれ!それで十分だ。ただ漠たる予感だが、ハシュシュを育んだアフガニスタンへ必ずや立ち寄るだろう、そんな気がする。何が何でもアフガンハシュシュを現地でおがまなくてはならない。売人の髪の毛が陽炎の中で燃えている、幻のアフガンへヘッドに沈殿したハッパの効き目が共鳴しあい、俺の髪もそちらにたなびく。

 ソ連のエアロフロートの機体の振動とともに体は中を浮いた。

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