アフガン・フリーク(パリのジャンキー)

パリのジャンキー

 ジャンキーに出会ったのはパリのポンピドゥーセンターの裏通りだった。その頃暇さえあればよくポンピドゥーへ出かけたものだった。泊まっているところから歩いて二十分の距離だった。
 バックパックの貧乏旅行者や大道芸人や髪を赤や緑に染めた、イギリスに少し遅れたフランス版パンクの連中や酒飲みや年金生活者が昼間から屯し、何か面白いことがないか期待し集まってきたのだ。だが何も起こりはしない。なるほど、センターの出入り口の広場には常時四、五十人の観光客が集まるのだが、そこには活気もなければ熱気もなかった。流れてきたミュージシャンがバヨリンを爪弾き、また、長髪の若者がギターを弾き、そしてスペイン人が歌を歌う。しかしそれに合わせて見物客の盛大な拍手や熱い合唱が続くわけでもなかった。大きな反応らしいものは返ってこなかった。失望したパーフォーマーはそそくさと道具を仕舞い、去った。それだけだった。
その日も残念ながらハッパを手に入れられなかった。夏が迫り来る太陽の日差しと湿気で皆は疲れて、眠たげだった。
 苛立たしくそこを離れてセバストポールの大通りに出ようとした時だ。金髪の青年がラリった調子で声をかけてきた。顔を見るなり、ストーンしているな、ハッパを持っているかも知れないと直感した。胸が高鳴った。
 一緒にポンピドーに逆戻りして、人気のない場所を選んで話に入った。
 こちらから先訊いてみた。
「ハッパか、LSDをもってないか?」
「ヘロイン、モルヒネ、コカインだけだ」
 そう言うと、腕に注射を打つ真似をして見せた。その左腕には緑色の刺青が掘られていたが、自分でしたのだろう、線が潰れて何が描かれているのか分からなかった。そして肘から下の部分に注射の跡が数箇所紫色の痣のようになり、残っていた。ドラッグのやり過ぎで、ホルモンのバランスを失ったため、その青白い顔の両頬は赤黒い吹き出物で一杯だった。
 奴はうっとりとした目つきで、ヘロインとコカインをやれと頻りに奨めるが、こちらは首を横に振った。ハッパとLSDに執着していた。こんな押し問答が続き、話は一向にはかどらなかった。とうとう業を煮やしたFは、もしその気になったなら、今日中にここに来いと俺の手帳に住所を書いて立ち去った。
 別れたその日は行く気がしなかった。ハッパと違ってヘロイン、コカイン等の所謂、ハードドラッグに対して抵抗感があったからだ。麻薬中毒、ジャンキーと自分は違うという意識、自負の様なものがあったからだ。そして裏返せば、いや、こちらが本当の理由だろう。一般に流布されている中毒の恐怖(麻薬の害悪か?!)を自分も感じ、恐れていたからだ。
 手元のネパール産の板ハシュシュは底を尽きかけていた。十日以上ずっとハッパをやっていなかった。しかしながら、別段ハッパに対する体の飢えはなかった。だが、奴に出会って、消えかかっていた欲求、意識下の願望の様なものが、喚起された。数日後視えない糸に手繰り寄せられるようにその場所へと足を向けていた。 
 緑色の大きな鉄でできた扉を開けて、螺旋状の鉄板の階段を上がった二階だった。市内地図を小脇に掲げ、何度も通行人や、店の店主に聞いてやっと目的地を探しだした。そこは学生や若者が多いサンミシェルの界隈だった。階段を上るとき踊り場のトイレらしい場所からアンモニアの匂いがした。廊下の窓には本物のステンドグラスの代わりに、複製のシールが貼ってあった。Fの部屋を確認するとベルを鳴らした。反応はなかった。いないのか。三回鳴らしたが、同じだった。開閉口に体をすり寄せ、耳をそばだてた。誰かいる物音と気配がした。すかさず、Fの名前を呼んでみた。扉に近づく音がはっきりと聞こえた。だが、すぐには開かなかった。覗き穴から覗いてこちらを伺っている気配がした。もういちどFの名前を呼んでみた。鎖付きの扉が用心深く三十センチほど開いた。栗毛の長い、肩まで垂らした女の顔が現れた。寝むた気な目つきだった。
「Fは?」
「いないわ、何か用?」少し警戒した目つきになった。そこで、奴がなぐり書きした手帳を見せて安心させようとした。あごをしゃくって入れと合図した。
 部屋は六畳ほどの広さで、玄関先がそのまま台所になっていて、スチールの衝立で二部屋にしきられていた。奥の部屋の黒いテーブルにはパイプや煙草や布切れが雑然と置かれていた。そしてベッドには雑誌と女物のシャツが散らばっていた。
 栗色の女は俺よりも若そうな、二十歳になってない年格好にみえた。ベッドに腰を下ろし、足を組んで、ぶっきらぼうに訊いた。
「ねー、いくらほしいの?」
「いや、Fに言ったが、ハシュシュが欲しいんだ」

「ないわ、Fはそんなこと言っていたかしら?」冷ややかな口調で言った。
ジタンの青いシガレットケースに手を伸ばした。
「本当は持っているんだろ、なあ!」
 ハッパに執拗にこだわった。
 しかし、彼女は両手を挙げて「ないわ(Pas du tout)」と呟いた。
 無論、入るなり、鼻でハシュシュの匂いが残っていないか探るため、鼻腔に神経を集中させていたが、タバコの臭いのほか、それらしい刺激臭はなかった。確かにその言葉に嘘はなさそうだった。ないものはない。やはり無駄だったか。場違いなところに来た気がした。少し不安になった。
女はさりとて帰れとも言わず、こちらには無関心で、黙って煙草をくゆらせた。ベッドの枕元には小箱が開き、注射器と腕を縛るゴムが見えた。通りに面した窓の開いた隙間から下の往来の人声と車の行き交う音が静かな部屋に入ってきた。何となく気がづつなくなり、じっと黙って椅子に腰掛けたままだった。まだ数分しか経ってないはずだが、ずうっと長い間、二、三時間もいるような気がした。
「ヘロインならあるよ」と女は再び口を開いた。
「いくら必要?」こちらを見ようともしなかった。
 煙草をもみ消すとこちらを睨みつけるようにして、もう一度同じことを訊いた。
 だが、これにどう返事をしたらよいか分からず、不安げに押し黙って俯いていた。
Fが五百フラン単位でしか売らないと言っていたことを思い出していた。ヘロインはやる気がなかった。ハッパも売人にしては儲けが少ないかも知れないが、少しぐらい持っているに違いない。そう思って強引にやって来たのだが。
彼女が男なら話はややこしくなり、もっと緊張感が漲っていただろう。ハッパを持っていないならどうしようもない。ヘロインをやるか?先程の不安感がいくぶん和らぎ、代わって好奇心が湧いてきた。
「一本やってくれ」と言ってしまった。
「一本?」と鸚鵡返しに訊くと、ベッドの下の引き出しから白い粉末が入った小袋をとりだし、調合するため前のキッチンヘ行った。
 そう言ってしまってから、しまった、どうしよう、大丈夫かな、また不安になってきた。
 ヘロインは全然やったことがなかった。習慣性や中毒性で悪名が高かったから、Fと話をしていたとき、ヘロインなんか唾棄すべきものだ、そんなものやめてしまえと諌める口調で言っていたのだが、その自分自身がいつしかヘロインに手を出してしまっていた。魔が差したと言えばそれまでだが、なんとも不思議だ。
 女が注射を打つため俺の右腕をむんずと捕まえた。出来るだけ見たくなかった。子供の頃から血とか注射は苦手だったから。彼女の目の色も髪と同様茶色で睫毛がひどく長かった。血管を探しているのか、腕を何回か揉み、やっと注射針を血管に打ち込んだ。針の痛みを感じたが、それは一瞬だった。終えると堅縛ゴムを手際よく外してくれた。
その間ずっと何もしゃべらず、黙々と仕事をやっている感じだった。時々こちらに眼差しを返すが、何を考え、どう思っているのか分からなかった。こちらも、相手も何も知らないほうがいいのかも知れない。そう思い口をあけなかった。
 今度は、女はベッドの端に座り、自分一人で器用に上腕にゴムを巻きつけると、手慣れた手つきで自分の分を注射した。
 打ってもらうと、二、三分で体中が熱くなってきた。心拍が強くなる。体中の血液や液体が目まぐるしく循環する。今までにない変な気分だ。体が熱っぽくなってくる。下半身が脊髄の下辺りから皮膚の内側から熱くなってくる。
 と同時に、ペニスが苛立ち、勃起してくるのが分かる。ジーンズのファスナーがつかえて痛い。女の方はと見ると、背中をかがめじっとしている。ファスナーを開ける。性欲で勃起しているのでなく、体がヘロインの作用に反応しているという感じだ。胸の辺りが、体の奥深いところのマグマから熱を放射され、熱いものが込み上げてくる。下腹の辺りから睾丸のつけ根にかけて皮膚の中側から熱を帯びてくる。次第にペニスが柔らかい綿のようなものに包まれたような快感が生まれだす。血液が血管の中を走りだす音がする。下半身の快感が次第に足先にまで伝わってくる。右足の親指が痙攣してくる。だが少しも苦しくはない、それどころか反対に体全体が暖かいベールに包まれ眠りに陥る直前の快感にも似た幸福感に浸っている。眠たいわけではない、意識も正常だ。

 女はと見ると、膝を突き、顔をのけぞらし、小刻みに体を震わせていた。横顔は快感に浸っているのか、何かを待っているのか目を閉じていた。黒いパンプスの底が震えてた。
 「大丈夫か?」
 声をかけてみたが、返事はなかった。
 二、三十分もするとペニスの快感は次第に薄らいでゆき、それとともに体中の熱も引いていった。ぼんやりと、天井を見ていた。急に眠気のようなものが後頭部の辺りから襲ってきた。意識が靄にでもかかったような調子になった。それとともに、先ほどの、いわば、抽象的な欲望というべきものではなく、具体的な、生々し欲望を感じた。それは最初の時の機械的な生理的反応と違った、肉感的な、しかし、もう少しヘッドに来るような欲望だった。
 背を向けた女のことはもう忘れていた。ただ天井の壁をじっと凝視いていた。白い壁に黄ばんだ水の乾いた跡、しみが見える。二、三十センチほどの細長い形をしている、粗衣手中央にいびつな線を引くように、その部分だけ黄色から、茶色の濃い色になっている。 具体的な欲望が次第にリアルになってくる。それは女に違いない、そう思うと。そのしみの形は金色に輝く女となって現れた。女は一糸纏わぬ寝姿で、左足を心持ちあげた妖艶な姿勢をしている。立体感のある女だ。幻覚か、そう思ったが、金色の光を体中に浴びて、挑発するごとく佇んでいた。萎縮していたものが再び勃起するのを感じた。頭にはセックスのことしかなかった。意識は欲望で一杯になった。摩羅はどんどん大きくなっていくようだ。またもや体中が内側から熱くなってくる。下腹に快感が徐々にたまるのを感じる。充血したものの外側の皮がめくれ、亀頭がどんどん膨張してゆき先端から透明な雫が玉になりこぼれる。睾丸から精輸管を通って精液が流れてゆくのが分かる。女の金髪が流れる。金色のアウラが眩く体を包んでいる。股間をまさぐる。金色のベールに包まれた女陰に自分のものが入ってゆく。膨張した陰茎は快楽の塊だ。どこまでも伸び拡がってゆく。欲望は上半身をも襲う。意識はペニスと化し、ヴァギナヘ向けて前進する。金色のアウラと化した空虚な穴をくぐり抜ける。摩羅に張り付いた血管がこすられ、こすり返し、興奮した襞から体液があふれ出る。いつ吐きだせるのか?精子が次々と溜まり、ぶつかり合う。下腹に次第に射精する直前の圧迫感が強まる。女の茫漠とした顔が一瞬見えたようだが、目を閉じていることしか分からなかった。
バンコックの中国女か?或いはサンドニの娼婦か?と同時に背中に快感が電流のように流れ、摩羅の緊縛感は解き放たれた。ものすごい量の精子が四方八方に飛び散り、神々しい女体に向け一斉に走り出した。
 ファスナーを閉じると、女の方を一瞥したが、ベッドを台にして膝を折り、寝ているようだった。
 俺はよろけながら立ち上がると、そっと部屋を出た。