アフガン・フリーク(イスラムカラ)

 国境にて


 1979年9月3日から一ヶ月間のビザを再確認してアフガンに入った。入国手続きを済ませたからと言ってイラン国境からアフガン国境まで風景が変わったわけではない。アスファルトの道路が一直線に道路を切る。ミニバスと呼ばれる五、六人乗客を載せられるマイクロバスから男が自転車でイラン国境へ向かう姿が見えた。ほかに見えるものといえば、赤茶けた砂と点在する乾燥性植物の姿だけだった。イラン国境近くのマシェッド近辺の風景とほとんど変わらない。遠くに紫がかった、雄々しく屹立する奇巌でできた山々や緑らしいものは何も見当たらない不毛の丘陵が砂漠とともに沈黙している様をパキスタンに入るまで、これからずっと見続けなければならないだろう。膨大な非情の時間がじっと押し黙り、石化したアフガン。
 イラン国境側のメシェドから自分一人だけを運んできたバスが止まったとき、アフガンの出入国事務所イミグレはすでに閉まっていた。その時ベストのポケットにはイラン紙幣と硬貨が僅かに残っているだけだった。運が悪いことに両替所も閉まっているではないか。これではアフガンの金にも交換できない。ミニバスの運転手はしつこく運賃を要求する。目の前がアフガン領なのに、足踏み状態のまま、一歩も入れないのは此奴のせいだ。 怒りとともにイラン国境の親爺の言葉が思い出された。行こうとすると、「もう国境は閉まっているぞ、明日にしろ。」そう言っていた。その時こちらは何を言っているんだ。いつでも国境は開いているはずだ。宿もないメシェドでどうして一晩明かせるのか?いい加減なことを言うな、そう思って、彼の忠告に耳を貸さず、ミニバスに乗り込んでしまった。その揚げ句がこの様だ。

 国境の開閉時間について自分が全く無知だったことを知った。国境はいつでも開いていて、明るいうちに入ればよいのだと思っていた。それというのもこれまでギリシャとトルコ、トルコとイランいずれも長距離バスを利用してきたから、国境のことは何も考える必要がなかった。バス任せでよかったからだ。
 此奴はアフガン側の国境がすでに閉まっているのを百も承知で、こちらの無知をいいことにして、バスに乗せたのだ。道理で誰も乗らないはずだ。愛想良い顔つきの奥に悪辣さを押し隠している運転手め、貴様には金を払わんぞ。
 「両替所が閉まっているからどうしようもない。金がないんだ。」
 そう言って払おうとしなかった。なおも奴を無視して、入国のための書類に目を通している振りをしていた。すると係官の方ににじり寄り何やら話をして運賃の件を切りだしたようだった。最初抗いはしたものの、仕方なく制服を着た係官の言う通りイランの金で支払わざるを得なくなった。奴は金を鷲掴みにすると忽然と消えてしまった。まるで砂漠の野ネズミのすばしこさだ。

 二十キロ近くの重い荷物をいっそう重く感じながら、国境上の街イスラムカラにある唯一の旅籠を目指して外へでた。外はいつしか夕日が落ちて暗くなりつつあった。
 宿の主人は終始陰うつな表情をしていた。どこか投げやりな態度を見せながら、部屋を案内した。まるで旅行者が来るのが面白くないとでも言うような素振りだった。思っていた通り泊まっている者は俺一人だけでほかには誰もいない。
 バックパックを床に下ろすとしゃがみ込んだ。それから体をベッドに投げつけた。余るにも疲れすぎていて、食欲すら湧かない。
 しかし、食事は取らなければならない。そう思ってナンを齧じることにした。このナンはこんなこともあろうかとメシェドで昼に買って、半分食べ残しておいたものだ。焼き立てならその上にジャムやバッターを付けなくても十分いけるのだが、これは何だ。干からびてカンカチになっていて、不味い!それでも、ただ体力を回復させるためだけにがむしゃらに口に入れ、咀嚼するしかなかった。
 それにしても、手に取った水は一体何だ。イスタンブールで買ったポーランド製のコイル状のヒータを使って水をいったん煮沸したが、引き上げたヒータの表面には白い石灰のようなものがこびりついていた。飲み水はギリシャ、トルコ、イランと東に来るにしたがい次第に悪くなり、とうとうここアフガンでは最低だ。
 飲むと、口に違和感が伴う塩ぽい味がする。二杯目を飲むと、更に喉が渇きもう一杯欲しくなる。清澄な水を期待しながら三杯目を飲むが、口がおかしくなり、喉が一層渇く。この悪循環だ。だが三杯目が限界だ。もうどんなに水が欲しくても飲めない。騙されないぞ。
 トルコ、イランでは水のかわりに、西瓜やメロンを食っていた。それらはたっぷり水分を含んでいたうえに、美味しかった。そして何よりありがたかったのは、体中の疲労という疲労を流してくれ、体力を回復させてくれたからだ。しかし今はそのような果物が手に入るわけがない。疲れはナンを食ったぐらいでは到底とれない。そこで水浴びでもしようかと浴室に入った。
 しかし、浴室とは名ばかりの代物だった。なるほど、西洋式トイレも浴槽も立派なのが据えられてはいるのだが、両方とも壊れて使い物にならなかったからだ。仕方なく水をバケツに汲んで体に浴びせた。二杯、三杯。砂と汗を流す。疲れも流れろ。懐かしのバケツ式水浴びだ。バンコックの安宿にいた頃こんなふうによく水浴びをしたものだった。水浴びでそれまでの重苦しい気分が少しは軽くなった。
 部屋に戻ると宿主が投宿の記入をするよう言った。
 その宿帳を見ると春にイタリア人が一人泊まったきりだ。その後は空白だった。
 さすがに国境上のこんなヤバイ所に泊まるのはブッ飛んだ俺とイタリア人ぐらいなのか。春以来内乱が続き、その結果旅行者の数が激減しているのがこれでも分かる。まともな旅行者ならアフガンを敬遠して、南方のザヘダンークエタ路線でパキスタンに入るだろう。何気なくその前のページを繰っていると今春以前には、何とはるばるスェーデンからここアフガンに来たもの数名。旅行者の国籍を見てみるとイタリア人とフランス人が断然多い。彼らバカボンはハッパが根っから好きだから、極上のアフガン産ハシュシュを求めてここまで来たのだろう。

 しかしハシュシュを手に入れても、無事トルコを越えて、ヨーロッパまで運び込めるだろうか?たとえば、陸路トルコまで行けたとしてどうだろうか?
 そこは旅行者の間で、映画にちなんで『ミッドナイトエックスプレス』の言葉が合言葉になっていたほどで、ドラッグ厳罰の国として恐れられていた。そのことを如実に物語っていたのは、宿に最近の法改正によりドラッグと係わったものは厳罰に処せられると注意書きが壁に貼られていたのだ。実際トルコに逗留中はこうしたことからパッパを吸っている者を一人も見かけなかった。無論ハシュシュのハの音も聞かなかった。
 こうしてトルコでアフガンやイランのハッパはシャットアウトされる。だから、イスタンブールのガラタ橋を通り抜けるとそこはオリエント、大麻が鬱蒼と生い茂っていていたという具合にはいかない。
 ではイランはどうか?言うまでもないことだがハシュシュの産地として、またそれと関連して英語のアササン暗殺者の語源としても夙に有名である。そしてトルコ、アフガニスタンと並んで罌粟の栽培地でもある。
だが首都テヘランであのホメイニ革命行こうぜ上は騒然としており、町全体が革命のアジテーションと化していた。硝煙さめやら街角の至る所にホメイニの肖像画アジビラ、そして処刑者、虐殺者、前国王シャーの手下、これらがポスターになり張り出されていた。殺気立った雰囲気のなか雑踏を掻き分け銃を持った自衛団が肩で風を切りどこかへ走っていった。
 テヘランでは有名な安ホテルAKに風来坊が集まってきたが、欧米の旅行者のほとんどがこうした不穏な情勢のため、外へ出にくい状態だった。熱狂的なイスラムシーア派)主義と民族主義が台頭し、欧米人に対して強い反感が渦巻いていたからだ。そんな状況下ではハッパどころではない。イスラム教の復活で、ダンスやアルコールは禁止されていた。ドラッグも厳禁だった。もし、捕まれば、ブタ箱行きならまだしも、その場で銃殺ということもあり得た。

 不気味な程静まり返った国境上の部屋を景気づけるため、いや自分自身を勇気づけるため愛用のローリングストーンズのテープをかけた。音楽は旅する者に無くてはならないものだった。聴くことで体内に音のリズムがうねりだし、血液を激しく押し出し、弱り切ったからだが一時的にせよ驚くほど癒されたからだ。
 倦怠と困憊のバンコック、そして覚醒と眠りのパリの日々。ラジオカッセトからミック・ジャガーの悲痛でいて、その真意は底抜けの明るい無垢を宿している、悲鳴とも哄笑ともわからぬ声が流れた。ミックは色で喩えるなら、白とどす黒い二色が混じりあい斑模様をつくりあげ、時にバラードあり、また激しいロックに合わせ叫んでいた。その肉体は聖衣を纏い、同性愛とドラッグで腐爛し、腐臭を放っていた。両性具有の肉体が世界を相手にファックし、歓喜と苦痛で呻いていた。両耳に共鳴板を据え、次の更に高まるバイブレーションを待ち受けていた。それはまるでフラシュバックのごとく現れた。


  
   フラシュバック



 カトマンズーのパイショップの流れている音楽やその雰囲気が思い出される。音に引かれてイカレた者たちは流れる。ニューロード通りをまっすぐに旧王宮を越えてゆくと道はいつしか石畳を敷いたものから土塊にかわる。あちらこちらに牛糞が散らばり、田舎の香りが漂っていた。
 中心街から歩いて十五分ほど行くと、いつしか雑踏の騒音や人声は消えて、代わりに、緑の畑の風景が広がってきた。先には粗末な家の作りの農家が肩を寄せ合い小さい村落を作っていた。牛、豚、家鴨、鶏、犬が走り回り、子供や女が世話をしていた。小鳥が樹々の梢からすばしこく顔を出して囀っていた。首都の街中の風景と余りにもかけ離れた長閑かな田園風景に驚いた。
 この地区に足を踏み入れようとしたとき薄汚い腰板を打ち付け、ペンキで彩色した店構えが何軒か目に付いた。看板を見るとパイショップだった。安宿近くのフリークストリート界隈のパイショップとこれらを合わせると、その数は、六、七軒にもなる。確かに、ハシュシュやLSDをやると何か無性に甘いものが欲しくなる。彼らがよく利用するからこんなにも多くの店があるのだろう。
 緑色のペンキで塗られた店の扉を開けた。と、最初にハッパの刺激臭が鼻を、そして幻想的な音楽が耳を襲った。ハッパをやっているなそう思うと、予期していなかっただけ、一層、嬉しさが込み上げてきた。席に着くと小暗い豆電球の照明のもとで、中にカップルの欧米人ともう一人、ジーンズのジャケットを着た男が先客だった。
 パイの値段は一切れ二.五ルピー前後で、ティー一杯が二ルピー足らずなので安いほうだ。アップルパイ、アプリコットパイ、チョコレートパイ、バナナパイ、ストロベリーパイ等種類は豊富で、しかも美味し。壁の貼り紙のメニューを見ていると、おかしなことに、「ハシュシュを吸わないでください」という警告文が隅に遠慮がちに貼られていた。 十坪足らずのこの店内にはハシュシュと煙草の混じり合った鼻につく匂いが充満していた。警告文もなんの意味もない、むしろ店側の単なるポーズとしか見えない。
 むしろ、本音のところは「ハシュシュを吸って、パイをどんどん食べよう」そんなところかもしれない。
 注文したチョコレートパイ、生地がケーキみたいで、チョコレートケーキと言ったほうがほんとのところかも知れないが、まろやかな甘味と歯触りを楽しみ、コクのあるティーを啜りながら、ほかでは見られない豪華なオーディオ装置から流れているミュージックに耳を傾けた。こちらに来る前に十分ハシュシュをやっていたからスピーカーから聞こえるピンクフロイトの音とすぐに融合でき、ゆったりとした時間の中で至福感を体験した。





 ミックのテープが終わると、再び暗鬱な空気があたりに押し寄せてきた。部屋の中でじっとしているのは耐えられない。ツーリストオフィスの係官が教えてくれた方角に飯屋が一軒ぽつねんと建っていたのを思い出した。咽喉の渇きを癒すためにもチャイ(お茶)でも飲みに行こうか。アフガンの貨幣アフガニには換金はできなかったものの、ポケットにはイスタンブールで出会った日本のバカボンからもらった十アフガニがはいていたから、お茶代二、三アフガニとして、これで十分足りるだろう。
 部屋を出て鍵を締めようとしていた時、安宿のボーイの少年とすれ違ったので、ちょっと外に出ると告げた。すると、真顔になって「ホテルから出るな、夜は危険だ」と警告した。
 だが、その時はその本当の意味が分からなかった。冗談じゃない。あんな暗い部屋でじっと眠りを待つわけにはいかない。灯火が見える、歩いて二、三分のあそこへチャイをのみに行くだけじゃないか、そう思って、外の闇の中へ入っていった。
 明かりを目指して歩いていると、茶店から漏れでる賑やかな楽の音が聞こえ始めた頃だった。突然、大声で「!」一喝。誰もいないと思っていたからそれこそ跳び上がるほどびっくりした。辺りを見ても、闇ばかりで、国境警部隊の兵舎とシャイ屋が放つかすかな光しかなかった。闇に慣れてきた目を凝らして前方を見つめると、知らない間に男らしい姿が現れていた。
 近づくと、ライフル銃のような大きな銃口が俺に差し出されていた。男は哨兵だった。じっと構えて今にも撃ちそうな気配だ。一瞬心臓が止まったようだ。すぐにまた動悸が激しく打ち出した。その音が聞こえてくるようだった。あっけにとられ声を出すことも忘れていたのに気づくと、「俺は日本人だ、日本、日本(アイムジャパニーズ、ジャパン)」そう大声で必死になって叫んだ。
 武器を持ってないことを分からせると言うより、むしろ、反射的に両手を挙げたホウルドアップの姿勢をしていた。
 「チャイ、チャイ」と震えながら叫んだ。
 相手は近づいてくると旅行者であることに気づいたようだった。しかし、向こうが何も言わず、俺を狙った殺気立った表情を崩さないので、「チャイ、チャイ」とカラカラになった咽喉からかすかなうめき声をふりしぼるようにして出した。
 兵士はやっと分かったようで銃を動かし行けと合図した。冷汗が体中から吹き出るのが分かった。恐ろしさの余りホテルへすっ飛んで帰りたいのをかろうじて我慢した。チャイ屋のカンテラの光、そこへ行けば誰かいるに違いない、きっと安全だろうと自分で言い聞かせて、走り出したい気持ちを抑えた。背に兵隊の視線を感じ、緊張しながらも、わざとゆっくりと大股で向かった。
 中には客らしい現地の者が二、三人いるだけで、所在なげに茶を啜っていた。客も主人も仏頂面で、笑い顔一つ見せない。どの顔にも暗い影が差しているようだった。このやりきれない重い空気を破っていたのは目一杯ボリュームを上げた音楽だった。だが、アフガンの音楽は初めて聴くせいか、騒々しくて気持ちをいらだたせるばかりだ。空虚を埋めるためにから騒ぎをしているようで虚しかった。どこから音楽は流れてくるのか?音源を探ると、驚いたことに、ラジカセだった。まさか文明から隔絶したアフガンでラジカセを見ようとは思ってなかったから、不意打ちを食らわされた。
 来る前のアフガニスタンのイメージはいつしか未開の地、野蛮の国になっていて、精密機器、例えばラジオ、テレビ、カメラ、時計等は全く流通していないとばかり思い込んでいたからだ。考えてみれば、ネパール同様、アフガンでも、文明は水が流れるごとく高いところから低いところへ押し寄せる。田舎はいざ知らず、街へ行けば、何製品か問わなければそんな輸入製品を目にすることができるだろう。そもそも未開の地アフガンという考えが甘くて、ばかげている。それにつられた自分は大バカだ。

 アフガンはアレクサンダー大王を筆頭に、ペルシャ、蒙古帝国、チムール帝国等によって幾度となく侵略、強奪され、滅び、また、戦禍の中で再生し続けてきた。異民族との不断の征服、被征服の歴史舞台になってきた。その都度異民族の文化、文明に接し、それを吸収し、自らも変貌を遂げてきた。
 だから高度な科学技術によって生み出された、文明の利器の一つと言ってよいラジカセがここアフガンのお茶屋に存在しても、別段不思議でない。驚くことでも何でもない。こう思ってみたものの、いささかの失望感を味わった。
 坊主頭の少年が持ってきてくれたチャイを飲んでみたが、その味は先程のホテル同様ひどいものだった。塩分や石灰が混じっているせいか、チャイの水そのものが悪かった。一杯目のチャイの中にはたっぷり砂糖が入っていたが、二杯目のチャイは残っている砂糖の上にお茶を注ぐだけで、再度砂糖を入れることはしない。三杯、四杯目になると糖分の甘味はなくなり、かわりに不快な水の味が一層強まった。舌から咽喉にかけていつまでも癒されることのない水への渇きが残った。ハッシュ!ハッシュ!。堪らなくなり三十分ほどで切り上げた。
  声高に騒ぎ立てる空疎な歌声が響き、死者を弔う葬儀を思わせる陰鬱な雰囲気にもかかわらず、こちらを何か引きつける物があった。それは壁に貼られた人物写真だった。後日カブールで彼が現親ソ政権の支配者、タラキ議長だと知ったが、それは奇妙な印象を与えた。六十×四十センチ程の大きさだが、写真特有の平面的な、希薄なイメージとは違って、その反対で、妙に生々しかった。それでいて、存在感、実在感が全く感じられず、見れば見るほど、被写体の人物は本当に存在するのかという疑問が湧いてきた。片方の目が斜視のせいで、両眼の視点が一点に定まらず、不安定で、右の目だけがまるで生き物のごとく、こちらをじっと見ているようだ。
 この男は本当に生きて、実在するのか?ひょっとして架空の人物でないのか?でまかせだろう。まがい物だ。
不意に笑いたくなった。自分が今ここにいるという現実感が無くなってきたのか?何か滑稽な失敗をしでかしたような感じだ。現実のいま、ここが成立しない、未知の領域へ足を滑らしたようだ。足は砂に埋まり、体の重心がどんどん下がる。まるで蟻地獄だ。麗しい夢の中に凶悪な罠が仕掛けられている。鱗粉をまぶしたような霞が体にまといつき、頭蓋に染み透る。フラシュバックに近いものを感じる。
 帰ろうとして子供にチャイ代を聞くと、主人が代わって「五アフガニ」と請求した。お茶代の相場が二、三アフガニだということは知っていた。
 むっとすると、「二アフガニだ」と俺は叫んだが、まるで聞いていない様子で同じ額を要求してきた。
 ボラれるのが嫌で、と言うよりも、その卑劣な手口、そして傲慢で剣呑なその態度に怒りが込み上がってきた。  「なめるな!三アフガニだ」そう怒鳴った。
 「いや、五アフガニだ」相手もしぶとい。
 同じことを更に何回か繰り返したが相手は一向に譲歩しようとしない。
 クソ、疲れる。相手は手ごわい。こちらの根負けだ。
 いまいましい。腹立たしいかぎりだ。ミニバスの運転手と言い、このチャイ屋の親爺と言い、旅行者から金を巻き上げることしか考えてない、腹黒い連中ばかりだ。やり切れない。ハッシュ!ハッシュ!
 帰りは夜警に見咎められず無事ホテルに戻れた。
 休むと疲れがどっと吹き出てきた。緊張していた神経が緩む。しかし、極度の疲労のせいか、部屋の中にいて安全だというのに、気が休まらない。いつまでたっても安堵感は訪れない。何も思考できない。脳漿は砂塵を立てて、混濁し、腐食する。
 静かすぎる。気味悪いほどだ。
 木と石で出来たこのホテルは幾千、幾万の砂の芥子粒を表面に受けながら、自然の厳しい風や熱と戦っていた。その忍耐力、持続力、これらはまさに人間が作り出したものだ。こうして大自然に人は抵抗するが、薙ぎ倒され、打ちひしがれ、這いつくばらねばならない。家やそれを作った人間が流す血は風に掬われ血煙となり、さらに砂と混じり、ついには、自然の一部と化す。
 ベッドに寝転がっていると右腕に痛みを覚えた。テヘランからメシェドへ行くバスで荷物を屋根に載せようとしていた時だった。荷物をルーフに載せるためスチールの梯に中段までのぼった時、草履が足裏の汗で滑ってしまった。と、同時に荷物もろとも地面に叩き伏せられた。咄嗟に体を庇ったため右腕を強打した。それ以来時々痛くなる。こんな調子で大丈夫だろうか?不安がよぎった。
 遠くで砂風に紛れて銃声らしい音がとぎれとぎれ聞こえた。傷めた腕をさすりながら眠りについた。