アフガン・フリーク(カンダハール)

   カンダハール




 カンダハールの夜景が迫って来た。バッグから、手帳を取出し、通りと宿の名をそらんじた。広い道路の両側に商店や民家が並んでおり、青色や緑色の光が暗やみを照らし、往来の人々は、叫び、がなり立て、喚き散らす。騒音と猥雑な、賑やかな活気に満ちた街中をバスは疾走した。バスターミナルが近いことが分かる。目的地に着いたのは予定の五時を大幅に越えた七時三〇分過ぎだった。確かに途中ゲリラに会って時間を無駄にしたが、それでも、着くのが遅すぎる。日はとっぷり暮れていた。
 バスから降りると、夜店が建ち並び、ランプの光が煌々と輝いていた。年端のゆかない少年達がメロンや西瓜や葡萄や柘榴やその他異国の果物を拡げて、降りてきた乗客に向かって頻りと声をかけていた。そこには生気を感じさせる普段の生活のリズムが波打ってた。ヘラートの偽の静寂と余りにも対照的だった。やっと、普通の、生きた街に出会えたという思いで、ほっと安心した。だが、そうのんびりしていられない、先は、宿を探さなければ。人ごみの中からもみくちゃになりながら外へ出た。
 四、五分もすると、人通りの多い四つ辻に入った。タクシーや車が猛スピードで行き交っている中で、交通整理をしている警官の姿を見つけた。信号がなかったから彼は乱雑に走ってくる車を整理するため、首を右左に振り、手を素早く動かし、時々、車の轟音にかき消されまいと首から掛けた警笛を鋭く鳴らしていた。猛然とやって来る車に注意しながら、ようやくそこまで辿着くと、チャンドラチョーク通りの場所を聞いてみた。だが、往来で尋ねてみた者と同じく、英語は出来ないようだった。だが、旅行者だと知ると、数メーター離れた派出所につれゆき、英語の出来る同僚に引きあわせてくれた。自分の重要な仕事を置いて、わざわざ俺のためにそこまで案内してくれたことに、感謝したし、それ以上に感激した。たったこれだけのことだが、アフガンに来てからというもの、親切にされたのが初めてのようで、ただただ嬉しかった。彼は今まで会った者の中では珍しく優しい顔つきをしていた。
 初めホテルまで歩いてゆくつもりだった。だが、英語が通じた同僚はここからずいぶん離れているからタクシーを使った方が賢明だと奨めた。彼が言うように宿近くまでかなり距離がある、確かに昼間なら歩けるかも知れないが、夜道、それも、灯といえば、裸電球がぽつりぽつりあるだけの暗い道を慣れない者が歩くのは大変だ。この際、タクシー代がかかっても致し方あるまい。言う通りにしよう。
 彼から前もってタクシー代を教えてもらっていたから金をボラれる心配もなく、旧式の車に荷を下ろした。車と言っても。ネパールで見かけた輪タクと呼ばれたもので、タイヤが三本で、前のボディが三角形をしたオート三輪だった。エンジンからバタバタと派手な音を出して走り出した。
 途中、側面の窓も何もない車内に疲れた体にカンダハールの空気、夜風をあびていると、鼻腔に異様な刺激臭が入って来た。忘れもしない。あの特有の匂いだった。ハッパだ。一度やったら絶対に忘れられない匂い。間違いなかった。ということは、町全体、いや少なくともハッパの香りが漂っていた辺りではハッパが出来るということか。なんと素晴らしいことだ。身震いにも近い興奮を覚えるとともに、近々アフガンハシュシュに出会える予感がした。

 遅い夕食をとりに外へ出た。人通りの多い方角に歩き出して間もなく、肉の焼ける油臭い匂いが辺り一面に立ちこめていた。カバブーの肉が焼かれ濛々と煙を立てているのが目に留まった。食堂の表で、大男が汗だくになりながら団扇で焜炉の火元を煽っていた。火の勢いがつくたびに網の上に並んだ羊肉からボッと炎があがり、さらに脂の肉汁が下に落ち、焼ける匂いと煤と煙を吹き上げた。両手を忙しく動かしていたが、気づくと、店の中に入るように大きな肩を揺すりながら右手に持った脂だらけで、しかもボロボロになった団扇で入り口を指した。
 念のため、店主に注文する前に「ハウマッチ?」と値段を聞いてみるが、返答がない。英語が出来ないようだ。しかし値を聞いたことは分かったようだ。巨漢は両手で太い指を折り、何やら数字を示すが、こちらにはいくらなのか分からない。いくらだ?一五アフガニを分からせるため、両手を使い、一度拡げた後、右手の指全部を拡げて五を示す。希望の値段が分かったかな?だが、店の者は怪訝そうなそうな表情をしたままだった。こちらもどうなっているのか分からなかった。
 すると、奥から誰か英語が分かる客が「二〇アフガニだそうだ」と助け船を出してくれた。
 しかしこれでは高い。
 大声で「一五」と叫んだが、相手は応じる気配はない。
 この値段交渉は疲れそうだ、やめだ。隣にも同じ店構えの食堂があるのだから。
 隣に入るなり、店主に有無を言わさず、一五アフガニを手渡すと、傍で客が食っているカバブーを指し示し、自分にも同じものをくれるように手振り身振りで伝えた。

 カバブーとナンを平らげて荷物を置いたSホテルに戻った。部屋に戻る途中ホテルの隣のチャイ屋を横切ってきたが、穏やかないい雰囲気だった。
 先程のバスの車内でみた賑やかな赤や緑の光は宏壮なチャイハナやホテルのアーチや壁面に掛っていた色の着いた蛍光灯から放射されたものだった。暗闇の中で蛍のように光の外縁部をぼうっと滲ませていた。それはそれで風情のあるものだった。 
 天蓋のない、広々としたチャイハネで人々は思い思いに集まり、茶を啜りながら楽しげに話に興じていた。そして人声に混じってスピーカーから歌声が流れていた。国境のお茶屋で聞いたのと同様、どことなく日本の歌謡曲のメロディーを思い出させた。今までと違ってゆったりと時間が過ぎてゆく、落ち着いた雰囲気があった。
1979,9,7

 オールドヒッピー

 
 待っていたチャイが出てきた。ボーイの少年は注文したときには五アフガニと言ったが、三アフガニにまけさせ、納得させた。なのに、今もって来て五アフガニを要求する。
「どうしてだ?」
「特別だから」と返事した。
 何がスペシャルだ。子供らしさ、無邪気さをみじんも持ち合わせていない。ペテン師どもの卵だ。欲得づくの、末恐ろしい餓鬼め。
「とっとと出て行け!失せろ」大声で怒鳴った。
 興奮していたので、お茶を啜るまでこのドミトリーの相部屋に人が居ることに気づかなかった。
奥のベッドに寝そべりながら俺達の口論など聞いてない風で、一心不乱に本を読んでいた。
 アフガンに入ってから一度もバカボンに出会わなかった。久しぶりだ。同じような境遇の者と無性に話がしたくなった。
 先の小僧は彼のことをドイツ人と言っていたが、彼自身の話によると、アメリカ人だった。
 世界を放浪してかれこれ二年以上経っている。アジア諸国で英語の講師をしながら生活費を捻出し、また次の隣国へ流れる。いつも割の良い英語の講師のアルバイトというわけにはいかない。汚い仕事もやってきた。
 彼は俺と反対の方向へラーとへこれから向かう。お互い宿の情報やバス代や留意すべきことなど情報交換した。
 アメリカ人に会えば聞きたいなと思っていた事柄を聞いてみた。
 今ヒッピー運動はどうなっているのか?六〇年代後半から七〇年代初期まで盛んだったヒッピーは今どうしているのか?それは日本のように単なる流行、ファッションに過ぎなかったのか?
 最後の意地悪な質問に一瞬怯んだようだったが、しばらく考えていてこう毅然と答えた。
 「ヒッピー運動抜きに今のアメリカ社会は考えられない。それは君が言うような単なるファッションじゃない。ヒッピーの運動以降、日々の生活スタイル、それを支えている考え方が変革されたのだ。物の見方が決定的に変わった。我々を取り巻く社会、自然、環境に対するカチが変わったのだ。」その意味が分からないので、valueとスペルを書いてくれなので、ようやく言った意味が{価値}だと納得した。そして続けた。
 「自然を見直すきっかけになったのが、彼らヒッピーの最大の功績かも知れない。自然に帰れと誰か哲学者がいっていたな。」
「そうそう、それだよ、フランスのルソー。ヒッピーはそれを実行に移したんだ。勿論すべてうまくいくはずがなかった。でも、技術文明の行き先に警鐘を鳴らしたのは彼らだ。つまり、身の回りに余りにも多くの商品や物に囲まれて、我々は一体どこへ行こうとしているのか?そう反問したのがほかでもない、まさに彼らだった。そして、コミュニティ、共同体を大自然の中で作り、農耕生活に入ったのだ。
 それと金の問題。彼らが初めて金が皆を狂わすということに気づいた。何も着飾る必要はない、必要なものだけで十分生活できるはずだ。Tシャツとジーンズでいい。それ以上持つから、また持ちたく思うから、更に金が必要になってくる。そうすると拝金主義に陥る。そうならないために、最低限の、慎ましい衣食住で足りる自給自足農業をやっていたのだ。こうした考えで自給自足出来るようなコミュニティを作っていこうとした。
 だけど、ドラッグが浸透しほとんど潰れてしまった。勿論内部での諍い、争いでコミュニティが壊れたり、或いは、宗教カルト集団になってしまったのもある。
 しかし、ヒッピーが実践しようとしたことや考えていたことは現在および未来の人と環境や自然との係わり方に大きな影響を与えたし、今なお与えている。そう信じるよ。今じゃ誰もジャンクフードを食べようとしない。出来るだけ自然を痛めないよう、そして体にいい、自然なものを食べるようになってきた。いいことじゃないか。そう思わないか?」
「えーと、名前は?」そう言いながら短めの髪の頭を片手で押さえた。
「ショウイチだ。」自己紹介するのも忘れていた。恥ずかしかった。が、思い切って手を差し出し握手を求めた。「ショウイチでいいんだな。おれはジョージ、よろしくな。」
「ショーでいいよ、それの方が言い易いだろう。」
「オーケイ」にやっと目元がわらった。握手を交わした時に、しなやかな甲に汗ばんだ湿気が自分の手に付いた。

「どこまで言っていたかな?」
 咄嗟に聞かれたので、即答できなかった。
「えーと、ジャンクフードだったかな。はなしていたのは」
「そうだったけ。まあいい。」
「例えば、マクノナルド」ジャンクフードで思い出した言葉が口から出た。
「なんだって?」自分のRの発音が悪いためか、もう一度注意深く言ってみた。
マクドナルド」
「ああマクノナード」
 俺はなおも和製英語の発音を繰り返した
「ナクノナルド」
二人は期せずしてフッと笑った。
 最後に正確にマクドナードと言った。
「当然、生活様式も簡素になってきて、無駄な浪費等しないようしている。だから或る意味では、ヒッピー達の御陰だとも言える。」
そうして本題にはいったが、手短に言えばこうなるか。
ドラッグはアメリカでは金儲けの対象、手段になっている。人々は薬漬けになっている。この俺自身一〇年以上ドラッグをやってきた。ほかでもない、ランチそう呼んでいた、小さな共同体にドラッグを大量に持ち込み、潰してしまったのは俺なんだ。潰すつもりはさらさらなかったんだが、結局、そうなった。
潰れた後、俺はプッシャーとしてその後も仕事をやるようになった。だけど或る日やめた。それ以来やってないと。
ジョージはこのように話を滔々とまくし立てるが、さすがに二時間以上会話を続けると、話す方は勿論、聞いている方も疲れてきた。もう英語についていけなくなってきた。弱まった意識を彼の言葉に集中させようとするが、意味のない言葉が耳の穴からこぼれていった。眠気がさしてくる。彼の瞼も重たく垂れ下がる。相当疲れているようだ。よし寝よう。奴は明日六時にヘラートへ向かう。
「おやすみ」
 翌日目が覚めると彼のベッドへいった。彼の姿はとうになかった。シーツはきれいに畳まれていた。頭のベッド柵に時計がぶら下がっていた。昨夜寝る前時計を持ってないのでバスの出発時刻を確認するために、貸してくれと頼むので手渡したのだった。時計は正確に何事もなかったように静かに時刻を刻んでいた。
 こんなアフガンでヒッピー礼賛やラジカルな社会批判論を聞くとは夢にも思っていなかった。はっぱに対する考え方は、違ったものの、それだけに、もう少しゆっくりと付き合いたかった。話甲斐のあるバカボンだった。
一晩だけの、夢のような、出会いが惜しい。無事を祈る。