アフガン・フリーク(害虫め)

1979,9,8 
 さて、ホテルを替えよう。確かに、ヘラートより雰囲気も良いホテルに違いなかったが、昨夜の御茶代を誤魔化すような子供がいるようなところは、許せない。少年の無垢の裏側に潜んでいる残酷さが鎌首をもたげ、旅人の足を噛む。それこそ毒の一撃だ。用心しないといけないな。
 Sホテルの斜め向かい側のKホテルに足を運んだ。ここを奨めてくれたのは日本人だった。その彼も奇妙なバカボンだった。

 エラズラムのキヨスクで、ハッパをやるための木のパイプを買おうとしている時だった。
「ちょっと、ちょっと、日本の方ですか?」背後から小声がした。
 なめらかな日本語に驚いて振り返ると、小柄な体つきの男が遠慮深そうにこちらを覗いていた。
 毬栗頭と牛乳瓶の底を思わせる度の強い眼鏡と奥に細い目、一昔前の日本人の典型的な顔立ちだった。その顔立ちを見ていると自分の姿がダブるようで気恥ずかしい様な変な気持ちになった。
 田舎と都市の中間規模の街エラズラム、そこは自動車と機械類の部品ばかりがどの店先にも並んでいたが、特に訪れるような有名な旧所名跡があるわけでもなかった。それも地理的には、イランへ向かうかまたはアフガンやイランからトルコへ向かうか、どちらかの通過点なのだから、普通の旅行者が立ち寄る場所ではない。
 だから、まさかこんなところで出会うとは思ってもいなかった。自然と日本の懐かしさを覚えて、彼の宿まで行くことにした。
 彼の宿というものの、宿泊施設の態をなしていなかった。普通の二階建ての民家の部屋を貸し与えた、間貸しの様なものだった。余りにもみすぼらしい、泥で出来た、崩れかかった建物の二階にあり、その部屋の中もこれまた、恐ろしく不潔で汚かった。日の差さない部屋で湿気ていて不衛生極まりなかった。安宿に慣れているこの身にさえ驚くほどの酷さだった。部屋は四畳半程の広さで、汚いベッドが空間を占有していた。二人中に入ると狭苦しいほどの圧迫感があった。部屋を入ってから出るまでずっと異様な悪臭と黴の匂いに悩まされ続けた。帰り際に、悪臭の正体が分かった。下に住んでいる家族の子供がしたのだろう、泥だらけの通路に小さな人糞が散らばっているのを発見した。その匂いが建物全体染みつき、悪臭を放っていたのだ。
 彼と話をしているうちにその身なり、外観が部屋同様酷いのに気づいた。
 白いシャツと白いズボンは汚れ、裾は垢がこびりつき、もう長年洗濯も何もしたことがないようで、灰色だった。白い運動靴も靴紐がちぎれ、穴が開きボロボロで、泥靴だった。到底、旅行者とは思えない。乞食にしか見えなかった。
 周りの子供に中国人の蔑称であろう、「チナ(china)!」と呼ばれ、石を投げられたと不満げに話したが、これでは同情できない。みすぼらしいからだに襤褸を纏いウロウロしているようでは、バカにされても仕方ない、そう思わざるを得なかった。と言うよりも、金銭的に、また肉体的に貧弱であっても、何か精神的に、内面的にそれを凌ぐようなもの、そうまで言わなくとも、何か魅かれるところがありさえすれば、身なりなどどうでもいいと思えるのが・・・・(しかし、そう思う俺自身はどうなのか?そう変わらぬではないか?)。そしてハッパは全然やらないようで、無関心だった。どこかおかしく思えた。
 奴はアフガンで手に入れた、何よりも大切にしているアフガンブーツ、コート、ナイフがヨーロッパではどれぐらいで売れるか、異様なほどに真剣に、しかも執拗に、訊いてきた。
 生返事をしていると、眼鏡の奥の細い目を更に細くして、
「一万五〇〇〇円」
「もう少しいくだろう、一万七千円、いやいや、一万七千八百円でどうだ?」
「買うか?一万八千二百円までならないかな。」
「うーん、奮発してよ、一万八千五百円でどうだ?」
どんどん自分勝手な値に釣り上げ、口の上の薄くてまばらな髭を満足げにさすった。
 確かに、アフガンナイフの方は刃渡り二十センチ前後で見た目にもすごく切れそうな刃と鋭い刃先をしていた。一刀で人の寝首を掻き切れそうだった。確かに、その妖しく鈍く光るナイフは護身用以上の攻撃性を秘めていた。そして、蛇の姿のような流麗なアラビア文字が柄から二、三センチ離れた刀の中央に刻印され、なるほどこれが世界的にも有名な代物かと感心した。
 だが、金にこだわり、計算たかだかの相手には、酷だが、こう返事するしかなかった。
「いくらで売れるどころか、こんな刃物をもっていれば、反対に、税関で没収されるんじゃないのか?」 
「そうかな?そうかな?二万円ぐらいで売りたいのだけど・・・・・うーん」と唸ると、蛇の部分に親指の垢だらけの延びた爪を載せて、何度もこすった。
 そんな彼の口からは、当然ながら、とうとうハッパの話題は何も出てこなかった。ただ、メロンがいくら、西瓜がいくら、バス代がいくらという値段の情報が機関銃のごとく次から次に発射された。そのなかにKホテルの値段等の情報があった。

 彼が言っていた様に目的のホテルは先の宿よりも、もっと静かで、落ち着ける雰囲気だった。宿代は一泊二十五アフガニのはずだった。しかし、宿主は三十アフガニを要求してきた。誰も客がいないのに、安くしないのか。
すかさず問いただした。
「前に日本人が泊まったとき二十五アフガニだったのに、今なぜ三十アフガニもするんだ?おかしいではないか。」
 俺の追求には少しも動じる気配もなく、傲慢な、睨め付ける視線を投げながら、きっぱりこう断言した。
「いやなら、ほかのところへ行けばいい。三十アフガニだ」
 その後も二十五アフガニと言っても、訊く耳を持たず、頑として値を下げようとしない。取りつくしまもない。
 だが、この時ばかりは不思議と抗う気も、怒る気もしなかった。
 第一に、値段のことをあれこれ言い合うのにウンザリするとともに、気分的に疲れてしまい、一刻も早く休みたかった。そして第二には、案内された部屋、ホテルの構え、なによりも緑の木々が囲繞する亭が気に入っていたからだ。荷を解いて、静かにその亭で休んでいたかった。そう考えると、三十アフガニ高くない。こうして泊まる宿は決まった。
 ホテルの前庭には床几が五つ、六つ据えられ周りを樹々が取り囲んでいた。
 このチャイハネも宿の主人が経営しているもので、夕方から賑やかなイルミネーションが輝き、大勢の男達が休息を取るためや雑談を交わすためにここにやって来るだろう。しかし、今は三、四組の男達がチャイを静かに啜っているだけで、喧騒さはない。
 周りだけでなく、テーブルや床几の傍に暗緑色の葉をつけた樹が植えられ、梢がちょうど太陽の光を遮ってくれる格好になっており、昼寝するもよし、チャイを飲むもよしといったところだ。
 スピーカーからアフガンの歌が絶え間なく流れてくるが、前のように神経を逆なですることものなく、逆に子守歌の様に気持ちを静めてくれる。時々小鳥の囀り声が耳をくすぐる。本当に静かで気持ちがいい。そしてどこかからかすかにアラーアクバルという声も聞こえてくる。
 四、五人は上がれそうな床几に上がり、体を横にして寝ころんだ。こんなに落ち着いた気分になったのはアフガンに入ってから初めてのようだ。
 時間が眠たげに、緩慢な歩調で流れる。木漏れ日と風が作り出す様々な模様が顔に当たり、斑模様の影を作り出す。光と影の戯れ。風に乗り軽快に走る光を影は必死で追いかける。追いつくと互いに組み合い、絡み合い、組んづほぐれつつ、遊び興じる。
 眩しい青空を見ているのに疲れて、目を閉じる。
 
 何かに意識を集中させることではなく、何かを体の中に招じ入れることが大切だ。無感覚、無感動を持し、意識をほぐし、拡散させること。
 空気を吸い込む。
横隔膜が下がり、胃や小腸がひしめき、押しだされる。
空気が深く口から入り、舌の味覚をかすかに刺激する。
風や光の味を口一杯に味わう。
気管の中に入り込み、気管支を膨張させ、心臓のポンプ運動は血管にその酸素を補給する。
体に各部にみなぎった空気。塵と光の粒。
 脳天は美しく放電する。
樹々は羽裏のおびただしい気孔から酸素を吸い、二酸化炭素を吐きだす。
笑いさざめき、はしゃぎ回り、至福感を感謝する妙なる楽の音。
森羅万象の奥。
隠れた金色の胸に抱かれ、暫し物は憩う。
俺の広大無辺な体内はすべてのものを受け入れる。
そのために体を清め、体腔を常に拡大させる。
体に澄明な空虚を穿ち、冷えた太陽をその中に密閉させる。
徒労感を結晶化させ、大いなる空虚を生成させるだろう。
それらすべては恩寵である。
風が、光が頭を震盪させる。
困憊したエネルギーは緑の微動する中へ放電される。
交感神経と自律神経の結節点としての口腔、空気との交感
思いきり呼吸することだ。

 いつしか気持ち良くうたた寝をしていた。
 その夜新しい宿に移って寝入っていたが、腰がかゆくて目が覚めた。ヘラートかその前の国境沿いのホテルでか、腰の辺りを虫に咬まれて以来というもの、傷口の辺りがかゆくて、夜中ぼりぼり掻くようになった。蚤なのか南京虫なのか、それともダニなのか、正体不明だが、とにかく痒い。痒くて堪らない。咬まれた時に痒いだけでなく、その痒みが何週間もしつこく続く。
 泊まったどこのホテルも、安宿のせいか、ベッドメーキングなど夢のような話で、前に泊まった者が使ったシーツや毛布がそのまま使われていることもあった。それも、ほとんど洗濯せずに、そのまま使われているようだから不衛生そのものだ。さらに悪いことに、旅行者が極端に少なくなってきたので、部屋の換気すらせず、次の新しい者が入って来るまで、ずっと長い間、扉や窓を開けない。こうして埃が積もった部屋の寝床は色んな虫の絶好の住処になっていた。だから気づかずに入った者は害虫奴の餌食になる。俺も犠牲者の一人だ。
 患部が体の後ろのため、どういう虫めが俺の生き血を吸っているのかまったく分からない。見えないだけに性質(たち)が悪い。夜中になるとそいつはムクムクと起きだし、背中を猛爆する。起き上がって無性に痒くて掻きまくることもあるが、正体が分からないだけに不気味で、こちらの反撃手段は封じ込められたままで、為す術もない。
 駆除といっても、水がふんだんに使えるわけでないから、風呂や水浴びでそいつを流し去るということもいかない。お手上げだ。そしてぐっすりと寝入った真夜中に虫奴に叩き起こされ、掻きまくっていると、後ろの腰の方は見えないので傷口が分からないが、前の腹にまでその皮膚が盛り上がり、赤紫色の蕁麻疹が浮き出てくる。さらに両腕の皮膚の孔という孔から毛が一本ずつ吹き出るように鳥肌が立つ。そして寝不足がたたり、不気味さと気持ちの悪さで終には害虫ノイローゼになりそうだ。そんな時は呪ってやる。呪詛するに限る。
 血を吸うがよい、おまえたち虫けらどもよ、俺の血の中に沈殿した微量のハシュシュ、LSD、ヘロインの成分も一緒に喰い、バッドトリップの悪夢を見るがよい。意識が続くかぎり地獄を見るがよい。