アフガン・フリーク(バーミヤン)

バーミヤン
1979,9,14
 バーミヤンには直接行く手立てはなかった。しかし、ヘラート経由で半日ほどの時間でいけなくもない。

 バーミヤンに着くまでに、一度昼食を取るために小さな村落に寄った。食べ物といえば、白く、鈍い、光沢を放つ、汚れたアルミニウムの盆に添えられたスープとナンだけだった。俺とジョルジュはよほど腹が空いていたのだろう、おせいじにも美味しいと言えない、いやそれどころか、正反対の、使われている水が汚れ、腐っているためか、泥臭い悪臭を放つスープ、そ
れも表面にチキンの油が数滴浮かんだ代物と干からびたナンを喰った。彼はスープを口に入れたとき、にこやかな顔を一瞬かき曇らせたが、俺の方を見て何か合図でもするようにして、飲み干した。俺も我慢してぐっと飲み干した。
 しかしその横の女は、半分ほど食べるともうそれ以上手を付けなかった。そしてミネラルウォーターの瓶の水をラッパのみし、「酷い味!(C'est mauvai)」と怒った調子で呟いた。俺達二人は舌や鼻が嫌がるのを無理して胃袋に詰め込んだが、ひとえにこれも空腹のせいだった。ほかの現地の乗客たちは嫌な顔一つせず、黙々と喰っていた。
店の造りは土で出来ていたので、中に入っていくとバスの中で暑かった体にはヒヤッとするほどだった。だが涼気というよりも、ジメジメした湿気がどこからか部屋中に過剰に充満しているようで、これが食事中大量の蝿がぶんぶん飛び交っていた一因かもしれなかった。それが気になると、今食べた物がどこか不潔に思え、気分が悪くなった。
 外は太陽の光が砂地に差し、それが乱反射して、眩しかった。背の高い木の下に井戸があり、昼飯時の子供やチャドリオ被った女たちが貴重な水を瓶に汲むため並んでいた。そして腰をかがめた老人が驢馬らしい動物に煙草や缶詰めを麻袋にはち切れんばかり詰め込み、行商の掛声を長閑にかけていた。道路の進行方向の両側には切り立った灰色の崖が荒々しい肌をさらし、その上をコンドルらしき鳥影が一羽数回旋回して、通り過ぎて行った。
 バスに再び乗り込む時に見てはならぬものを見てしまった。民家と民家の土壁の間を水がちょろちょろと流れていた。そこで女達が数人赤ん坊を小脇に抱えながら、粗末な食器類を洗っていた。そこまではいい。だが、その水面を見ると、細かい塵芥と垢で出来た薄い膜がうっすらと張り、澱んでいた。まさかこの腐った水を使って先程の皿も洗っていたんじゃないだろうな、そう思うと病気、肝炎のことが気になった。
 カトマンズーでスェーデンのバカボンと同じ部屋になったことがあった。体調が悪く、外へも出ず一ヶ月以上部屋で寝込んでいた。自分では肝炎かどうか分からず確信がもてなかったのだろう。
「俺の目は黄色くなってきたか?だいじょうぶだろう?」と訊かれた。
ブロンドの髪の毛を長く伸ばした彼の灰色の目にはうっすらと黄疸が出ていた。肝炎に間違いなかった。だがとっさに何もいえなかった。彼の心中が手に取るように分かったからだ。ただ疲れているだけだと一縷の希望を信じていたかった。自分が肝炎になったのではないかという疑念をバカなと一笑に附す強気の反面、目の白目部分がこころなしか黄色に染まってきているのではないか、ひょっとしてそれなら肝炎に罹ったかもしれない。そう思い、弱気になる。肝炎なら最悪だ。旅の終わりだ。そうでなければまだ救われるのだが・・・そんな心中の葛藤があったにちがいない。だから、本当のことを言う勇気がなかった。
「肝炎になっている、こんな不衛生なところにいつまでもとどまっていているな。すぐに本国まで帰れ、そこの病院で入院しろ。」
残酷だが、そう事実を告げるべきだった。きやすめの同情心は本人のためにならない。俺自身にも。後悔した。 
 七〇年代前後の頃、ネパールやインドやここアフガニスタンにやって来たヒッピーや旅行者の多くが肝炎に罹り、死者も相当数出たようだ。この辺一帯の水や食べ物が肝炎ウイルスで汚染されていることが多いためだ。だが、これに対する決定的治療法はなく、ただ静養して、体の治癒力の回復を待つしかない。多分この辺の旅で一番怖いのがこれだ。だから、出来るだけ、生水、生ものは食べないように心がけていた。やむを得ず水を取る場合も、ホテルの部屋へ帰り、愛用の電熱線で煮沸してから水を飲むというふうにしていたが、電気が使えない片田舎ではどうしようもなかった。与えられた食事は食べるしかなかった。他の選択肢はなかった。
 

 太陽がギラギラまぶしく降りそそぎ始めた。砂漠を、そして岩山を越えてゆくと、過ぎ行く風景が道路の両端に街路樹がまばらに植えられ、所々散在している景色に変わり、町が近いことを知らせた。いよいよバーミヤンに辿着くんだなという思いで、胸が高鳴った。後ろを振り向くと、長旅で疲れたジョルジュたちの顔にもこれからの期待で笑みが溢れた。奴等と出会ったのは一昨日のカブールでだった。
 
 それは、カバブーをたいらげて、賑やかな四つ辻を散歩していた時だった。粗末な裸電球が道際に黄色い光の輪を投げつけていた。その光をうまく利用して、色んな夜店が自然と形作られていた。果物や菓子やよく分からない食べ物がわが物顔で道を占領し、その味、色彩、光沢、匂いを各々自己主張合っていた。行き交う男が足を止め声高に話し合い、活気があふれていた。
 そんな人込みの中からふと目に止まったのは立ち止まって何か食べ物を買って行くジーンズを穿いた男女の姿だった。今まで街で旅行者らしい姿を見かけなかったので、自然と足が小走りになり後を追った。
 話をしているうちに、フランスからやって来てバーミヤンの仏像を見に行くため一旦カブール経由バスを待っているということだった。バスはゲリラのとばっちりで、定期便はなくなったが、運良く二日後にマイクロバスが出ると言うことだった。ヘラートではその方面のバスは出発しなくなったと訊いていたから、にわかには信じられない気がした。だけど、それが本当なら俺も行きたい。それじゃこの際一緒に行こうということになった。こうして今朝から酷い悪路の中をおんぼろバスは俺達を乗せてバーミヤンを目指して疾走していた。
 車中、話をしているうちに次第に打ち解けてきた。男の名はジョルジュ、相棒の方はスザンヌ。彼は自動車工場で働いていてこのバカンスにインドまで来て、そこで彼女スザンヌと出会い、一緒にパキスタンを経て、ここアフガンに来た。この後、陸路で国まで帰るつもりだ。アフガンへはブッダを見るためとハッパを吸うために来たのだ。だが二十日の旅行期間はすでに過ぎ去り、金も少なくなりつつある。使い果たした空のトラベラーズチェックを闇の業者に二十ドルで売り捌いたが、焼け石に水だ。最初はインドだけのつもりだったが、とにかくアフガンハシュシュの素晴らしさに魅了され、ここまで来てしまった。そんなことを話してくれた。
 ジョルジュは俺が日本人だと知ると、驚いたことに、{サトリ}について訊いてきた。
最初何のことか分からなかったが、仏教、禅についての質問だった。仏教徒なのかと訊かれても、うまく説明できなかった。神を信じているわけでもないし、さりとて仏教の教えを信じているわけでもなかった。ほかの大部分の日本人と同様、家には仏壇があり、寺には墓がある、そうした宗教心とは関係のないところで、形式的、儀式的とまで言えないが、それに近い状態で御寺と係わっている。ただし、精神的にはそこに濃淡はあるにしても、日常ほとんど意識しない空気のようなもの、としか答えようがなかった。
 彼は顔を合わすたびに、インドの素晴らしいことを繰り返した。パキスタンを経てインド、ネパールへと行くことを知ると、頻りにインドのベナレスへ行けと奨めた。インドフリークかと思うと、少々疲れた。と言うのは、ネパールにいた時、インドからネパールにやって来たバカボン達からガンジス川の偉大さ、インドの面白さ、そして、バグワンの宗教コミューンの素晴らしさについて耳にたこになるほど話を聞かされていたからだ。
 だが、こちらが宗教について無関心な態度を取っているのに気づくと、その話は二度と持ち出さなかった。
 彼の話を聞いているうちに、自分にとってバーミヤンの仏像を見に行くことはただの物見遊山に過ぎないのかも知れない、そう思った。むしろ本音は、彼が気に入って、もう少し一緒に旅をしたいそんなところだったのかもしれない。笑うたびに目元にしわができ、鼻の付け根までたてに皺が出来た。時に素っ頓狂な大声をはしゃいで出す。また時にはぼーと何か考え込んでいて、こちらの話を全然聞かないこともあった。しかし、笑い顔の無邪気なこと、屈託のない表情は、アフガンに入って以来というもの、柔和な顔にほとんど出会わなかったため、久しく忘れていた、何か貴重なものを見せてくれるようで、気が落ち着いた。
 一方、スザンヌの方は、余り好きになれそうになかった。金髪の髪の毛を後ろに丸めて結わえていた。かなり傷み、汚れた、鍔のある麦わら帽子を被り、首にはインドで買った赤と緑の混じったトルコ石のネックレスを架けていた。目鼻立ちは整っていたが、肌は日よけにもかかわらず日焼けして浅黒かった。奥の目は吸い込まれそうな群青色の青さ。しかしその瞳はどことなく人を寄せ付けないような冷たい感じを与えた。
 方向こそ違うが、同じような旅をしているということが、そしてなにより、ここアフガンに一緒にいるということが、いままでの孤独感を癒し、安らぎをもたらしてくれた。そしてそれぞれの旅が作る線が交わる点にバーミヤンがあった。
 
 大仏像

  それは徐々に近づいてきた。まるで歩いてくるように。顔は良く分からないが、全体の輪郭はくっきりと浮かび上がっていた。それが石像だと分かった。パンフッレトや案内書を見て、作ったイメージは何の役にも立たなかった。それは静かにこちらを見ていた。五十メーターもある、巨大な、途方もない大きさのためか近づけば近づくほどこちらの視野を混乱させた。
 なおも前進した。前進するのだが、それは向きをこちらに向けたまま、あたかも後退りし、逃げるようだ。
 やっと顔立ちや下の衣の皺の部分が良く見える地点を探しだした。上の顔の部分を見たが、そぎ落とされた部分はへこみ、影となっていたため、来る前に覚悟していた痛々しい、無残なものという予想を裏切った。欠如がもたらす、虚しさ、空っぽの感じが視野の隅々にまで拡がった。もう少しで、滑稽感、おかしさで笑いそうだった。これが期待していた有名なバーミヤンの仏像か?はるばるやって来たのにこの様は何だ?
 光で眩しい、静かな空間に素頓狂な大声が上がった。 背後で砂ぼこりをたて足と腕を目茶目茶に動かし、西部劇のインデアンみないに小躍りしていた。彼等は口々に感動詞を並び立て、はしゃいでいた。
「ショー、来てよかったな、最高だぜ、こんなの見られるなんて素晴らしいじゃないか!」
こちらの返事がないのもお構いなしに
「バンザイ、バンザイ」
スザンヌもいつになく、その冷たい青い目が少し潤んだようになっていた。麦わら帽を取ると
「あ、だめ」と言う彼女を無視して
頭上にほうり投げた。
 ひらひらと落ちてくるベージュ色の楕円形を目指し、二人は先を争って取りに走った。そして一足先に着いた彼がまた帽子を投げた。二,三回遊びを繰り返した。
彼女の悲鳴や彼のカラカラ笑う声が続き、悪ふざけをした。
 大粒の汗を額に流し、ジョルジュは息を弾ませながらこちらにやって来て、
「ショー、バンザイ、バンザイ」と叫んだ
スザンヌもなまった日本語で「バンザイ、バンザイ」と叫んだ。こうなるとこちらもの仏像に対する空虚感を埋めるべく、彼らと同じことをしなければならなくなった。とはいえ、大仏が与えてくれた童心にしばし還ったようで、確かに楽しいひと時となった。

ハッシュ!ハッシュ!
  
 木陰を探して、膝を抱える格好で地面に腰を下ろし休んだ。ただ歩いただけで顔から汗が噴きだしていた。
 女がカメラを小脇に抱えジョルジュと一緒にこちらにやって来た。
「どうしたの?気分でも悪いの?」
心配した気持ちを抑えられずに、訊いた。
「たいしたことないよ、大丈夫」
「そう、じゃ、ここで一休みしたら、写真を取るから」
「そう、一緒に取ろう」
「ああ」
あいまいな返事をしたが、疲れているうえに、写真か、そう思うだけで、億劫になった。
 折角の誘いだが、そもそも、観光地を写真に取るということに興味が持てなかった。敢えてカメラのシャッターを押すまでもなく、自らの意識をフィルムにして様々な印象を刻みつければ、それで十分だと思っていたからだ。無論記憶というものが不確かで、すぐ移ろい易いものだということは百も承知だ。この肉体はやせ細り、貧弱なものだが、これを通して、意識というフィルムに刻まれたものを、いつか、十分年月を経てから、現像させることが可能だ、そう信じていた。だから何かを写すということは全然しなかった、さらに、出来るだけ写真の被写体にもなりたくなかった。説明するのも大人げなく、さりとて、むきになって拒否するのも具合悪いので、言われるまま、従った。