さらBABA!僕たちのトリップ2

幻の『パフォーマンス』からのトリップ論(長文)
パフォーマンス 青春の罠 (1970/英)
Performance
[Drama]
製作 サンフォード・リーバソン
監督 ニコラス・ローグ / ドナルド・キャメル
脚本 ドナルド・キャメル
撮影 ニコラス・ローグ
音楽 ジャック・ニッチェ
出演 ジェームズ・フォックス / ミック・ジャガー / アニタ・パレンバーグ / ミシェル・ブルトン / アン・シドニー / ジョン・バインドン / スタンリー・メドウズ
(映画批評空間より)

文中写真は草思社1973,3,10初デビット・ドルトン監修三井徹訳『ローリング・ストーンズ・ブック』より

男が高級車の中で女を愛撫する。彼女の乳房をもぎ取るように、荒々しく揉み、なめる。ゆれる車中でチャス(ジェームズ・フォクッス)は女を玩具かなにかのようにもてあそぶ。速いスピードでカットが続く。何かにせきたてられるように、女を攻め立てる。背に爪を立て、魔羅を突き立て、この手負いの獣は欲望を見たさんがために暴れ回る。が、このサデスティックな愛撫が凶暴になればなるほど男の苛立ちはつのり、女から離れる。そして、その手は空をつかみ重く垂れ下がる。

 こうしてオープニングの暴力的な画面にさらされながら僕たちのハードな旅(トリップ)は始まった。
シンジケートに追われているチャスがたどり着いた場所は、元ロックスターで今は引退しているターナーミック・ジャガー)の家だった。オカルトに心酔しているターナーの下で狂宴が繰り広げられる。しかし何時でもパラダイスは続かない。やがて終焉はやってくる。チャスがターナーを殺害する形で。一方、チャスを追っていたシンジケートはついに隠れ家を見つけ出し、彼を車に乗せて過ぎ去る。これが、この映画の筋できわめてシンプルだが、決して単なるサスペンスでもノワールでもない。
 モンタージューやカットによって画面・物語は切り裂かれ、細分化され、断片化される。その裂け目から血糊と幻覚が吹き出てきて、僕たち見るもののヘッドを攪乱、混乱させ、狂わせる。『ローリングストーンズ・ブック』の著者スティーヴン・ファーバーが評するように、<まったく革命的なヴィジョンを描いたものであり、爆発的で、完全に、見るものをまごつかせるような出来>である。

幻覚の場


チャスが闖入したターナーの地下室は魔界だった。黒ミサと東洋のタントラやマントラがないまぜになったデコール、混沌たる様相を呈しつつも、しかしそれらは不思議とひとつの雰囲気をかもし出している。
 なるほど、ターナーらがトリップする世界、その内的世界を表現するのに、ローグは60年、70年代にはやったサイケデリック映画の常套手段をつかてはいる。水溶液の運動や、レース模様の輝き、色彩と形態をエクスパンドさせ、デフォルメさせ、多重露光など。これらを使用しようと思えばいくらでも活用できたはずである。だが、ニコラス・ローグはシャープな映像を短時間のうちに暴力的な勢いでたたみ込み、要所要所で前述の陳腐な手法を抑えて使っているだけだ。このドライな、抑制の効いた暴力的なスピードで展開される数々のカットが他の商業ベースにのった映画を顔色なからしめている。
そして、オカルト的コンテクストによってターナーに扮するミックの、すでに神話化された特権的な存在は日常性からほとんど逸脱しそうなまでの圧倒的イメージと共振し合いながら、ついには幻覚をヘッドに浸透させることに成功している。
ストーンズ神話

ここで幻覚性キノコを食べるミック・ジャガーについて、特にその存在から放たれるスキャンダラスな神話をついてみてみよう。60年代からビートルズと並んでロック界のスターとして君臨してきたストーンズにまつわるゴシップ、スキャンダルは何よりも、ドラッグとの関係を中心とするものである。当時はドラッグがタブー視されていたから、それを使用することは無論それについて言及することも反社会的行為として、非難された。ストーンズ自体社会から敵視され、タブー視されていた。それゆえこの『悪魔を哀れむ』バンドは黒魔術的色彩を帯び、ファンのカルト的な熱狂と支持を得ていた。
 なかでもミックはその風貌にホモセクシャルな魅力とドラッグ中毒者のデカダンス、息苦しくなるような妖しい魔力によって圧倒的だった。彼らがドラッグを実際どれほどやっていようが、逆にやっていなかろうが、彼らの周りにはドラッグ神話が築かれていった。
また彼らは彼らでそのことを承知の上か、マスコミや社会を挑発する歌を歌い、演じていた。このもっとも俗っぽい、穢れのヒーローが志向する世界はシャーマンがセッションする場である時空間と正反対である。現代のサタニックなシャーマンが唱える歌というものは、聖なる言葉でなく、猥雑な、電気仕掛けの呪文とも言うべきものだ。
このストーンズ神話の中心人物のミックが映画に登場し、その黒ミサ的であるとともに、ドラックの妖しい世界を提示・啓示してくれる。そう期待し、彼のパフォーマンスを熱望している。しかも、マジックマッシュルームを食べるシーンがくれば、観客はミックのドラッグ神話の網の目を通して映画を見るしかないだろう。
こうなると、フィルムの中のミックは単なる映画のターナー役を演じているだけでなく、ヘッドたちにはその過剰な欲望、期待、願望やらが投影され、凝集したものとして、つまり過剰な記号として映るしかあるまい。つまり、普通のフィルム上の映像としての記号作用だけでなく、ドラッグ神話の影がさしている過剰な記号として僕たちの前に現れる。映像上のマジックマッシュルームについてもまったく同じことが言える。
ローグによって捉えられた幻覚/現実はストーンした世界をノーマルな世界から切り離して、それのみを対象に映し出す手法では到底できなかったことである。すなわちターナーとチャスの内面を交差させるとともに、意識の世界から外界、また逆に外界から内的世界へと自由自在に交流させるために、カメラの視点を次々と変えるからだ。その結果、内的世界と外界との境界が次第にあいまいになってゆく。
カットのひとつひとつがいったいターナーの意識なのかチャスのそれなのか、さらに内的世界なのか外界なのか分からなくなってくる。誰が男なのか女なのか?限定し、区別し、特定できなくなる。男は女のようだ。逆に女は男のようでもある。女は男に変身しその逆も起こる。ギャングのターナーは裁判官に変身する。
こうして意味ともの(イメージ)との社会的関連は消えてゆき、あるものの意味はAであり、かつ非Aであるという差異の消えた、無化された、意味の自由な動きが可能になる。そして、ついには、この世界は主体が交換可能な、相互変換的な世界として現れる。
これは日常性に慣れ親しんだものの意識をかき乱す。と同時にヘッドには<かなり効いてきたな>というトリップに対する期待感を高める。
こうした内的世界と外界が区別できなくなった場合、何らかの他者のコントロール(影響)でハイな、安定した方向へ向かうことが可能である。そうした場合が大半であるが、中には、この状況を悪化させ、パニック状態になり、いわゆるバッドとリップするケースもある。幸化、不幸か、ターナーを導きの手としてトリップしたチャスも明らかにバッドとリップしている。

バッドトリップ

しかし、このバッドトリップについて人は多くを語らない。
それはある意味で仕方ないことかもしれない。なぜなら何よりも死という体験に似ているからだろう。文字通り筆舌に尽くしがたい苦悩。では、具体的には、どのような状態なのか、自分の経験をまじえ少し書いてみよう。
 言葉は思考や意識をまさぐり、さまざまな形として限定し、差異化し、それを捉えるが、すでにバッドトリップに入った状態では、それは目にもとまらぬ速さで、猛スピードで逃げ去る。言葉は遅すぎる。いや、正確には、言葉にできないほど、パニック状態の時間の流れは速いのだ。言葉は日常性に戻ってから、さまざまな規則を遵守し、その生の体験を修正し、意味づけ、文章を作り出す。それもでっち上げられた言葉の群れを。だが、そうした言葉によって粉飾された、変形した体験以外何も伝えられない。

 チャスにとって最初のトリップが地獄行きのバッドトリップであり、そのセッティングがオカルト的だったことは興味深い。追われていると言う心理的条件(セット)とあいまって、そのトリップは下降し、失速し続ける。
考え、思うことは漠たる不安へと移行する。さらに、不安はさまざまな幻像となり、リアルさを増す。考えまい,不安になるまいと思えば思うほど,それらの思いは一層不安な像になり、意識におそいかかってくる。まるで蟻地獄に落ちた昆虫のように。意識は総毛立ち、恐れ慄く。ついには、恐怖一色に意識は染まる。
このようにしてパニック状態におちるだろう。早くトリップが終わってしまえと念じることもできない。ノーマルな意識の自分に帰りたいと願っても、すでに遅い。全エネルギーが恐れを総動員しているからだ。見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、ありとあらゆるものが恐怖に加担する。意識を意識する自分が避けていることを意識し、それを意識しているのだ。それを意識している意識を意識している・・・・・・・
無限に広がる意識の中で、私という意識は流されてゆく。意思を意識しているもとの意識が消滅するまで、この無限地獄の苦悩・牢獄からのがれられない。時間はすでに変容し、遅遅として進まない。こうして永遠に、意識の虜になっていなければならない。驚くほどの速さでパニックが全意識に広がってゆく。
 バッドトリップ中に、チャスは必死になって自分は一体誰なのか、何者なのかという問いを発していたに違いない。そして今自分はどこにいるんだろうか?こんな魔窟の中で何をしているのか?ひょっとして,シンジケートから追われていたのか?
 しかし、このように自我のアイデンティティを問い、反問すればするほど、事態は混乱し、悪化する。パニックは一層大きくなり、自らの同一性を根拠付ける意識が解体し、消滅する場合もある。

ターナー/チャスの死



映画に戻って、ターナーの死をどのようにとらえるか。
これをチャスの彼への愛ゆえの殺害と解釈することはおかしいだろうか?
ターナーの女の誰よりもセクシーで肉感的な魅惑を秘めていたのは、ほかならぬ、紅をさした唇を濡らし黒いタイツをはいていたターナー(ミック)だったではないか。しかもその性的魅力はホモセクシャルな(両性具有的)ものだ。チャスがターナーにピストルを突きつけたときも、まったく動じる気配を見せず、むしろ反対に愛するもののために喜々と死を受け入れんばかりの表情だったではないか。倒錯した、過剰な愛が供犠としてターナーの死を要求したのだろう。もしそうなら、彼の死は決して不意打ちではない、とつぜんの破局でもない。全体としての意味は連続性を保ち得ているから、こう考えていいだろう。
あるいは、ターナーの死をサスペンス風に、彼はチャスを追っているギャングと関係があり、そのことを見破ったチャスによって殺されたのだと。そう考えるのがもっとも素直で、一般的だろう。だがこうした見方ではラストシーンの断絶、意味の散乱を十分には読解、体験し得ない。最初の解釈もそれはそれでいいが、ここではむしろ、先ほど触れたドラッグ体験に引き寄せて彼の死を読解するほうがスリリングだ。
チャスが殺したのは確かにターナーである。だがほんとうだろうか?錯乱し、パニック状態では外界も内的世界も判然としないはずだ。その状態では,ここはあそこでもあり,私はチャスであるが,ターナーでもあるのだろう。主体と客体の区別は混合し、判断できない状態だ。前提が揺らぐが、そもそものはなし、チャスが果たしてターナーという他者を認識しえていたかはなはだ心もとない。そのような混沌とした状態だった。したがってチャスがターナーを殺したとは確実にはいえない、してみるとチャスは何に向かって殺意をいだいたのか?他者でなければ、それは自分自身に向けて?そう、もうひとつの自分をチャスは殺したのではないのか?
端的に言えば、ターナーの死とは、チャスにとっての内的世界の死、自我の死を意味しているのではないか。外界でのターナーの死がチャスの内部での死を意味するのならば、チャスにとって必ずしも破局を意味するものではない。むしろ、ポジティブに評価すれば、死後の再生が期待されるからだ。
だが、このチャス/ターナーの死が再生するためには、トリップに導き手が必須となる。しかるに、この導き手・シャーマンとなるべきターナーが今現実に死んでいなくなってしまった以上、再生は叶わない。それは単なるバッドトリップに過ぎない。死=意識の解体のままの状態だ。
こうして死と再生の聖なる儀式は失敗に終わった。だから、きのこによる幻覚作用がなくなり、チャスが日常性に戻ったとき、このバッドトリップは単なる幻覚だったこと、そして自分は組織に追われているチンピラに過ぎないことを知るだけだ。単なる悪夢に過ぎなかったのだとうそぶくしかないだろう。彼の内的世界は傷ひとつ追うことなく、強固な統一体として存続するだろう。だが待ちうける日常性、現実は冷酷だ。しかも最悪の現実が。

ラストシーン

チャスが戻ったのはシンジケートの世界だ。隠れ家を知ったやつらはチャスを魔界から現実へと連れ戻す。ロールスロイスに乗るときのチャスは不気味に笑っている。いやそれはチャスに化けたターナーだ。このラストシーンをどう読むかによって、今まで見てきたこと、論じてきたことがまったく正反対のほうへ行きかねない。これはどういうことなのか?ヘッドが揺らめく。目が痛くなる。まるで見ているもの自身がこの映画によってストーンし、フリークアウトしたようだ。
ターナーはチャスによって殺されてしまったのだから、ここで車に乗っているのはチャスのはずである。しかし映っていたのは、鬘をつけたターナー(ミック)である。ではターナーは完全に死んでいなかったのか?だとするとチャスはどうしたんだろう?今までのことはすべてターナーの幻覚に過ぎなかったのだろうか?どんでん返しにしてもあまりにも激しいラストシーンである。フィルムは中断する。
もし、ターナーの一人芝居なら、彼は現実には何もしていなかったわけで、このパーフォーマンスはノ・パーフォーマンスである。
あるいは、車に乗ったものが、ターナーでなく、チャスだと考えれば、ターナーなどどこにもいなかったということになる。それは追われているチャスが苦境の余りありもしないターナーを頭の中で作り上げたに過ぎない。ここでも、前述同様チャスの幻覚に過ぎなかったことになり、またもやノ・パーフォーマンスである。
このようにして、フィルムの物語性、その意味関連から花にも答えは得られなかった。だが、考えれば、そうなるのも当然かもしれない。なぜならば、トリップ体験に引き寄せ考えれば、このラストシーンの男は、チャスであると同時に、ターナーでもあるからだ。
つまり、意味の自由に浮動する記号としてその男は存在するからだ。
ローグがやったことは、フィルムを見るという体験がサイケデリック体験と極めて似ていること、その視点をいかようにも変化自在させることで意味が喪失した、主客交換可能な時空間を提示することである。ターナーあるいはチャスの幻覚をフィルムに定着させることでは決してない。
翻ってタイトルのパーフォーマンスという言葉の意味を考えれば、行為・演じることだが、これをしたのは、映画上のチャスや、ターナーでも、また現実のミックやフォッグスでもなく、ほかでもない監督ニコラス・ローグであり、映画の中の商業ストーリ性という日常性にゆさ振りをかけ、亀裂を生じさせたからだ。そいてその亀裂から生まれた断片化した映像/意味の群れからあらたなパーフォーマンスを引きうるのは他でもない僕たち自身であることを知らせてくれた。
緻密に計算されたこの映画パーフォーマンスは、次の来るべきフィルムとトリップ体験の触媒(メディアム)に過ぎない。フィルムに暗幕が下りてから、あるいはトリップが終わってからその新たな意味を自らの手で作り出すことを僕たちに強いる。映画の中の車中でみかんのパーフォーマンスが始まるのではなく、僕たち自らのトリップの中でパーフォーマンスは成し遂げられるだろう。決してたやすくない、ハードなトリップの中で。