<貸本マンガ史研究>の白土三平論

四方田の絵ときならぬ、言葉ときの白土論に辟易して、たまたま本屋で見つけた<貸本マンガ史研究>(2001の4,7号、2002,8号)を買ってきた。>ほんとは前から気になってたの。そして貸本マンガ時代の白土三平の作品を論じた権藤の<白土三平の彼方へ>を面白く読んだ。
貴重な資料を跋渉しながら作品→←時代を往還し、白土三平の作品を論じていたからだ。


 例えば、白土作品で言われる(た)残虐場面*1で、論者権藤は<忍者武芸帳>の残酷性について60年代初頭当時の貸本マンガの読者層(小学生を想定していた)につき次のように書き反駁している。

貸本業界は貸本マンガを子供の読み物と見ていたのだろう(略)
子供マンガに激しい残酷描写が登場したととらえたはずである。
(略)
単に、残酷描写があったからと言うわけではない。百姓一揆にまつわる硬質なドラマが全体を貫いていたからである。そこに、事実が、あるいは、真実がかいま見られるからである。夢想を破壊するほどのリアリティが感受できるからである。見たくもない世界が存在するからである。子供にとっての理想主義を全否定するからである。

そうしたことから対象は14,5歳以上であっただろうと指摘し、さらに、『この復讐心が残酷性に結実する』その残酷性につき当時の貸本マンガを読んだ読者の位相につき、他の久慈作品や平田弘史の<血だるま剣法>に触れながら、丁寧に具体的に検証してゆく。展開は買って読んであげて→http://www.mugendo-web.com/kasihon/

 評者権藤晋については、漫画家つげについての評論があるらしいが、不勉強でよくしらない(すいません)。たしかに、ドラマツルギーという言葉や60年代の時代につき分からないこともあるが、またその結論(?むしろ問いかけている)が妥当するかぼくの手にはおえないが、それでも読むものをぐんぐん引き付けてゆくものがあった。それが多分、評者の権藤の一時代なのだろうが、その自分の体験を愚直といっていいほど丹念に確認・検討しながら作品について語るという作業が誠実になされていて、好感がもてた。

 また、この貸本マンガ史研究*2でほかの知らない<街>とか何故か懐かしさを誘う貴重な貸本マンガの写真も興味深く見させてもらった。さんくすー

*1:小学生の子供にサスケ、カムイ伝など貸し与えているが、その友達の父兄はアレは残酷なんで教育上よくないといってたが、子供は夢中になり読んでいたよ

*2:創刊にあたってで引用<「貸本マンガ」の盛衰にかかわるさまざまな課題は、これまでにも多くの人たちによって、とりわけマニアックな手つきでとらえかえされてきた。しかし、そこにみられる、いわば歴史意識が希薄なままに行われるしょせん「穴掘り作業」では、たいていの場合、たんなる些末資料主義ないしは資料些末主義的な情報に執着するだけにとどまり、結局はマニア的自己満足を超えるものを生み出すことはできそうにもない。>確かに、志が高くっていい