河鍋暁斎て

江戸時代の鯰絵或いは化物で有名だということしか知らなかった
http://www.isics.u-tokyo.ac.jp/db/contents/index.28.html>鯰絵
ちょっと調べてみるとぶっ飛んだ作品を残している。
河鍋暁斎記念美術館
http://www2.ocn.ne.jp/~kkkb/Kyousaij.htm
それ以外にも洒脱な漫画・挿絵なんかも。>これはこれですごくいい
仮名垣魯文と組んだ<西洋膝栗毛>の挿絵で気になっていたんよ

河鍋暁斎<略年譜>

http://www.kawanabe-kyosai.org/page2.htmlより

*1872年(明治5)以前は太陰暦、それ以後は太陽暦による。


1831 天保2  1歳〜1889 明治22 59歳

4月7日、下総国古河石町(現・茨城果古河市中央二丁目

3番51号)に、父・河鍋記右衛門(古河の米穀商亀屋の

次男、土井藩の河鍋喜太夫信正の養嗣子となる。)

母・とよ(石見国浜田藩士・三田某の娘)の次男として

生まれる。幼名・周三郎。


1832 天保3  2歳

父は江戸の定火消同心・甲斐氏の後を継ぎ甲斐記右衛門

と称し、本郷御茶の水の火消屋敷(現・本郷三丁目1番地、

順天堂病院の場所)に居住。一家も父に従って江戸へ出る。


1837 天保8  7歳

浮世絵師・歌川国芳の画塾に入門して絵を学ぶ。


1839 天保10  9歳

梅雨による出水時、神田川で生首を拾い写生したという。


1840 天保11 10歳

狩野派の前村洞和愛徳の門に入って学ぶ。


1841 天保12 11歳

洞和の病気により、その師、駿河狩野派の洞白陳信(とうはくのりのぶ)に入門する。


1849 嘉永2 19歳

修業を終え、洞郁陳之(のういくのりゆき)の号を与えられる。


1850 嘉永3  20歳

11月、秋元薄の絵師・坪山洞山(洞白門人)の養子となり、坪山洞郁と称する。

二年後、素行不良により坪山家から離縁される。


1855 安政2  25歳

10月、安政地震仮名垣魯文と出会い、鯰絵を描き、板元に大利もたらす。

このころ蒔絵師菱田氏のもとで下絵をかく。


1857 安政4  27歳

鈴木其一の次女・清と結婚。父の希望により河鍋氏を継ぎ姓とした。


1858 安政5 28歳

このころから狂画を描き始め「狂斎」と号す。生計のため扇屋伊勢新の勧めによるという。


1860 万延1 30歳

仮名垣魯文の口上を添えた錦絵「今昔未見生物猛虎之真図」や魯文の『滑稽富士詣』に口絵を描く。次男(長男は夭折)周三郎(後の暁雲)生まれる。

この年、父・記右衛門、妻・登勢続けて死去。


1862 文久2 32歳

8月、兄直次郎死去。絵本「鷹鑑」初編三巻刊。明治初年に二編二巻を追刊。


1863 文久3 33歳

4月2日、版元・恵比須屋庄七をともない、見世物の象の写生をする。


1864 元治1 34歳

1月22日、愛宕山狂歌稗のため大黒えびす弁天を描く。「釈迦八相倭文庫」に挿絵をかく。


1865 慶応1 35歳

5月、信州旅行。門弟・杉本留吉同行。7月、戸隠神社中院の天井に竜図を描く。

(省略)
1870 明治3  40歳

10月6日、上野・不忍弁天の長蛇亭にて、俳諧師・其角堂雨雀主催書画会で描いた戯画により、逮捕、投獄される。牢中で重い皮膚病にかかり、一時釈放されるが、再入牢。


1871 明治4  41歳

1月30日、苔五十の刑を受けて放免。号を暁斎と改める。

5-10月、修善寺温泉江戸屋喜平方で静養。沼津の母を訪問。


1872 明治5  42歳

8月10日、母・とよ没(84歳)。このころから開化物の版本の挿絵を大いに描く。


1873 明治6  43歳

ウィーン万国博覧会へ大幡「神功皇后武内宿禰の図」を出品。

5月1日、両国河内楼の書画会で200枚描く。


1874 明治7  44歳

3月、湯島神社に額絵を奉納。横浜で仮名垣魯文が発行した初の滑稽諷刺雑誌「絵新開日本地」(1-3号)に挿絵を描く。


1876 明治9  46歳

5月21日、中村楼の書画会で席画を描く。9月、フランス人実業家エミール=ギメ、画家フェリッタス=レガメーが自宅を訪問。レガメーと互いの肖像を描きあう。

11月、川越・小ケ谷村の内田斧右衛門を訪ねて、多数作画。この年、岸田吟香と足利の田崎草雲を訪ねる。


1877 明治10 47歳

滑稽諷刺雑誌の興隆とともに、魯文の関わる雑誌の表紙や挿絵をさかんに描く。
省略)
1881 明治14 51歳

第二回内国勧業博覧会に「枯木寒鵜図」「花鳥図」など4点出品。「枯木寒鵜図」は妙技二等賞を受賞し、榮太楼主人細田安兵衛が百円で買い上げ評判となる。この年、湯島四丁目22番地へ移転する。また英国人建築家・ジョサイア=コンドルが入門。『暁斎楽画』等一連の絵本が版行される。



1883 明治16 53歳

6月、第一回パリ日本美術縦覧展に「龍頭観音図」を出品。

コンドルに「暁英」の号を与える。


1884 明治17 54歳

5月、コンドルと鎌倉旅行をする。第二回パリ日本美術縦覧展に「黄石公図」「鷲猪ヲ取ル図」「山姥図」などを出品する。8月、狩野洞春秀信(前名・洞栄)死去。臨終に際し、画技遵守を頼まれ狩野永悳立信に入門する。


1885 明治18 55歳

7月26日、妻・近、逝く。8月1日、コンドルと日光写生旅行をする。


1887 明治20 57歳

7月、瓜生政和「暁斎画談」刊行。

8月、沼津の本光寺(甲斐氏の墓所)に「枯木寒鵜図」の碑を建立。

この年、ブリンクリーの紹介で、英国人画家・モーティマー=メンピスに会う。

1888 明治21 58歳

東京美術学校教授依頼のため、岡倉天心フェノロサの来訪を受ける。

10月1−18日、沼津で母の墓参、「枯木寒鵜図」の碑を見る。


1889

4月26日、胃がんのため、コンドルらが見守るなかで死去。谷中の瑞輪寺正行院(しょうぎょういん)(谷中三崎南町64番地、現・谷中四丁目1番6号)に葬られる。

法名・本有院如空日諦居士。


山口順子作成(参照:飯島虚心著『河鍋暁斎翁伝』(ぺりかん社1984年)板橋区立美術館河鍋暁斎』展(1985年)江戸東京博物館河鍋暁斎と江戸東京』展(1994年)図録等)

ギメとういのはあの有名なパリのギメ美術館の創始者エミール・ギメのこと。
ちなみに44点の河鍋暁斎の作品が見られる>漫画あり、錦絵、引札、その他

①先ず↓へ行く
http://www.photo.rmn.fr/cf/htm/CSearchT.aspx?Round=2&Total=44&FP=8083240&E=22S39UKZELYZ&SID=22S39UKZELYZ&New=T&Page=1
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1878パリ万国博覧会>明治政府10年後の日本展にだすも、当時の廃仏毀釈で見捨てられた仏像等が出展された「海外美術回顧展・日本の部」の方が脚光を浴びた>ギメ蒐集による





以上
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Paris, muse'e Guimet - muse'e national des Arts asiatiquesより