妖しい本<刺青・性・死>松田修

Imperial Iranian Academy of philosop

既出の本
これ何十年かぶりに読んでいると行間から三島由紀夫の影がちらちらするようで寝苦しそう、そう昨夜思いながら寝た。案の定何度か微かな寝覚め数回。>これって当然三島と何の関係もないよ

生まれてくる、生きていることの恐れ、罪悪感に苛立ち一人は女と情死し、もう一方は男と情死した。太宰治三島由紀夫シャム双生児。自らの観念にとりつかれ一方は弱さを偽悪的に演じ、他方は強さを形(肉体・スタイル)にこだわりながら演じた。
いかに死ぬかがすべてだったに違いない。あれほどまでに、肉体を見せつけ、形にこだわったのも内からあふれ出る、止めどもつきぬ観念の湧出を防ごうとしていたからに他ならない。滑稽ですらある。もとよりそのことを自ら自身がよく知ってはいたが、ピエロ。

江戸化政期に大いにはやった刺青につき<色道大鏡>、<男色大観>、<水滸伝>等を見ながら、その異端性について論じたのが本書(以下引用同書よりイメージも)。

水滸伝豪傑百八人之図(浪子燕青)国芳
愛と刺青の項で

言葉や、書かれたものに対し、刺青につき、松田はこう論じる。

愛人の名は、いったん彫り込まれれば、すなわち永遠であり、不動である。惨たる一回性、決定性に犯された骨がらみの行為である。表皮から表皮へと沈殿して、ふたたび表皮へ還る色の具体。それはもっとも内密なもの、もっとも不可視、・不可説なもの、すなわち愛の表象である。

また

刺青とは、本質的には秘められた、覆われるべき行為であった。おそら一瞬の露呈、見顕わしの華麗さは、長い助走としての隠匿を前提とすることによって、初めて成就するものであった。

(この辺ある種三島論じゃ?)
また賤視、差別し禁じられた刺青につき後半こう書く

反伝統・反秩序・反日常が、刺青一般から日本の刺青を聖別してきたのだ。それゆえにこそ、永遠なる怨念の炎に灼かれてこそ、日本の刺青は世界に類例を見ない、統一的デザインによる全身彫りの美の高みにまで飛翔し得たのだ。

当時の濃密な時代相を反映もした、この過剰な思いいれの文体(この文書自体が異端的(死語)だなぁ)は刺青という特異な肉体とからんで、もし三島が読んだなら絶賛しただろう、いや、三島の内面の声を聞くようでちょっと怖いなぁ、それにしても<仮面>や笑止なボディービルなどという生ぬるいものでなく、なぜ刺青をしなかったのだろうかなどとあらぬ事をあれこれ考えさせられた。(というより、松田の本書は凡百の三島論を心胆寒からしめる、刺青に仮託した三島(オマージュ)論てのは深読みかな)
イヤ、ホント、三島なんて恐ろしい人、小心者の僕にはどうでもいいんです、第一にあのレトリックの空虚さに耐えられませんから。

松田修著作集てのあるみたいだけど高い!(http://www.yubun-shoin.co.jp/